修法を行う事2 ■■■02■

それから、色々と話を聞きながら、水を汲んで戻ってくる頃には、もう日も落ちかかっていた。
しんと静まり返った家に響き渡る低音に思わず聞き入って、持っていた瓶を落としそうになる。
何て言えば良いのか、正しく験者特有の腹に響く声は、重厚感があると言うのに、研ぎ澄まされた透明感もあり、耳に心地よい。この声色から察するに、クモと呼ばれていたあの綺麗な顔の験者だろう。先ほど話していた時も、よく通る声だと思ったけれど、今はそれ以上、まだ家に上がっていないと言うのに、はっきりとその読経の声が聞き取れた。まぁ、何を言ってるのかまでは、お経だから理解は出来ないけど。
気後れしながらも、御簾を揺らし、水を持ってきた事を伝えると、現れたのは、マヤさんの方だった。彦四朗さん達の方を少し驚いたように見てから、再び私に視線を戻した。
「彼らと一緒に?」
「はい、彦四朗さんのお言葉に甘えて。どちらに置きましょうか?」
「ありがとうございます。あとは、私が運びます」
そこに置いてください、と彦四朗さんたちに目配せをして、私の腕にあった瓶を軽々持ち上げた。
「他にお困りな事はありませんか?」
「お気遣いありがとうございます。でも、修法に必要なものは、これで揃いましたし、用があれば、こちらから言います。修法に集中されますので、今後立ち入りはご遠慮頂けるとありがたいのですが」
「あ、すみません。気をつけます」
「いえ。それでは」
鼻先で閉じられる御簾に、少し突き放された感じがして、気のせいかと、彦四朗さんの様子を伺った。
「気にする事はないさ。マヤの奴は、だいたいいつもあんな感じだ。悪意があるわけじゃなく。…そう、ただ合理的なだけだよ。クモ殿に関係なければ、人当たりの良い男だ。京でもそりゃ女にもててたし」
あんな冷たい人が女にもてる?想像できないな。
「そうですか…きっとお忙しかったんですね。あの、彦四朗さん、リュウ君、ありがとうございました、すごく助かりました」
「お安い御用だよ。他にもあれば序に手伝うが?」
「ありがとうございます。あとは、私もここで控えているしかする事がありませんから。きっと従兄弟が、お連れの方に部屋をご用意していると思うので、彦四郎さん達も休んでください」
「ヒナちゃんは、一晩付いてるって事?」
「何も出来ませんけどね。日課のようなものでなんです、おばちゃんの付き添いは」
案内しますね、と九郎兄さんが用意しそうな場所へ向かうよう促す。南向きの部屋で、一番風通しの良い所だった。彦四朗さんは、その簀の子縁に腰をかけて、背を伸ばすと、私に向きなおる。
「こんなに部屋を貸して貰って良いのかい?」
「お気になさらず。何でも仰ってくださいね。何も無いところですけど、できる限りの事はさせていただきますから」
「だが、祈祷で色々と煩雑だろう。人の出入りもあるだろうし」
「人の…?特には、朝までないと思いますけど」
「けど、修法を受けてるのって、この郷の長の母御なんだろう?」
「はい、そうですけど」
「なんか、普通だな」
そう言われ、私は、そう言った彦四朗さんをただ見返した。
何が、普通?
「やっぱりここらは、サンザン参りの験者が多いのかい?験者が珍しくないんだな。俺の住んでいる郷だったら、祈祷所を取り囲んで、皆一晩中付きっ切りなもんだが。あまり期待されていないのか?」
「いいえ、験者様のお力を信じていないわけじゃないんです。ただおばちゃんの修法は、これが8度目なんです」
「8…度目」
「信じるって、すごく大変な事なんだと思います。だって、ただ信じていれば、おばちゃんが治るわけじゃない。信じたって、ううん、信じる思いが大きいほど、うまくいかなかった時にひどく惨めな気持ちになる」
「悪い。失言だった」
申し訳なさそうに頭の後ろを掻く彦四朗さんに、私は首を振った。
この郷の人達は皆、修法は病を癒す事ができると知っている。でも、全ての修法が、あらゆる病を治す事ができるわけじゃない事も知っている。全ては、三所権現様のお導きのままに。
それが、この郷の人の考え方。
じゃぁ、私はおばちゃんの所に戻りますね、と立ち上がる。その背中に彦四朗さんの声がかかる。
「俺もする事ないし、どの道寝るわけにもいかねぇし、一緒に夜を過ごさない?」
両手を後ろについて、私を見上げてくる視線は、強い。確かに、年頃の息子を置いていく人かもしれない、と苦笑。お父さんと言うよりは、親しみやすいお兄さんって感じだもの。きっと奥さんは苦労してるんだろうなぁ。
「ふふ、なかなかそそられるお誘いですけど、いくらなんでも、許婚の家で他の殿方と夜を過ごす度胸は持ち合わせてません」
「許婚って、さっき言ってた?」
「はい。ここの庄司の弟」
そう、十郎は私の許婚。
喧嘩しかしなくなったって、私は、十郎に嫁ぐ。
十郎にって言うか、戸野になのかもしれない。それって政略結婚?って思うけど、それほど嫌だと思った事はない。大切な故郷の竹原や戸野にできる、それが私のできる最大の事だと思うから。
十郎の事だって、嫌いじゃない。
ここ数年、険悪な会話ばかり続いても、どれほど酷い事をされても、十郎との付き合いは、生まれた時からなのだから。
私を幸せな気持ちにしてくれた。その記憶の方が、何倍も多い。それに、十郎は私にとっては空気のように当たり前に存在する人だし、初めて好きになった人を嫌いになんてなれるんだろうか?
傍にいるのが当たり前だと思ってたし、何よりも誰よりも十郎の事分かってるつもりだったのに。あんな風にきつい瞳を向けられるようになって、十郎は違ってたんだって事に気付かされた事の方が、辛かった。

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彦四朗さんたちに別れを告げて、おばちゃんのいる隣の部屋に座り込む。
陽はすっかり沈み、星が明るさを増すけれど、部屋の中まで届くわけもない。そうか、今夜は月が沈むの早かったな、と真っ暗な天井を仰ぎ見る。月のない晩は、星達がざわつくような気がする。目標がぱっと消えてしまったかのような、そんな気分になるせいかしら。何に縋れば良いのか、分からなくなるのが怖い。
でも、こうして抹香の匂いが立ち込めて、低い読経を耳にしながら、夜を過ごすのは何も初めてって言うわけでもない。
おばちゃんが体調を崩し始めて、もう3年になるだろうか。初めは、ただの風邪だと思ってた。それが、一日二日経っても治らなくて、今では、家から出る事すら難しい。体ではなく、気に巣食う病だと、郷の人は言っている。病の化に憑かれたんだと、ある験者は言っていた。治る見込みは少ないって事。それは、看護しながら、おばちゃんの具合を目の当たりにしている分、誰よりもよく理解している。ずっと、ずっと、おばちゃんを見てきたから。法力を持たない私には、それ以外、出来ることもなかった。
だから、そんなおばちゃんを本当に治す事が出来るのかとか、絶対によくなるって何の確信もなく信じるなんて、出来ないんだろうと思っていた。なのに、耳に、そして体に響く、心地よくさえある音律に、一筋の光が見える気がしてしまう。たぶんそれは、あの漆黒の瞳の色がまだ鮮明に私の脳裏に焼きついているからかもしれない。
そんな風に考えてしまう自分に本来なら苦笑するばかりだけど、笑えなかった。だって、態々信じないでいる理由が不思議なくらい思い浮かばなかったし、何より、おばちゃんの病が治るならそれが一番じゃないか。結果裏切られても、構わない。
ううん、絶対に治る。元気になってくれる。笑いかけてくれる。
そんな安心感を与えてくれる読経だった。

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