修法の真実 ■■■32■

歩き始めから、うん、なかなかの履き心地だ、とか満足げに新しい草鞋を堪能しているクモさんは、本当に禊をしたいんだと、ただそれだけだと思っていたから、後ろを付いて来ていた足音が消えたので、慌てるように振り向いた。草鞋を試すのはもう良いのか、私から数十歩ほど間を空けて立ち止まっているクモさんは、右、左とゆっくり辺りを見回していた。
「クモさん、どうかしました?」
「あぁ、ごめん。ちょっと待っててもらえるかな」
「え?」
歩み寄った私の返事など求めてない様子で、藪の中へ進んでいく彼の背を反射的に追えば、クモさんは気づいたんだろう、掻き分ける手を止めて、こちらを振り向く。
「待っていて…と言われても、って感じだよね。ごめん、ヒナ。正直に話すよ」
困ったように、笑みを向けられても、私はさらに困惑するしかない。
「サワ殿は、修法のおかげで回復したって言うわけでもなかったんだ。騙すような事して、すまない」
突然切り出された話題は、山道で立ち止まる理由としては、あまりにも不似合いなものだったし、何よりその意味が分かりかねる。おばちゃんは現にあんなに元気になっているのに、謝罪を切り出される必要はあるのだろうか。
「本当は治ってないの?」
思い浮かんだ理由を口に出してみる。
「いいや、もう大丈夫。安心して、サワ殿にはね、クスリを調合して、服用してもらっていたんだ」
「クスリって、京の?」
「うん。それの他に、身が煎じたものも」
「煎じた…って、でも、私ずっと読経の声を」
「あの手の病は、普通、修法で治るものだろう?それに、身は験者だし、ヒナを初め皆、疑いもなく身がそういう風に治すんだろうと思っているようだったし、そう振舞った方が良いかなって。験者の格好して、クスリを処方しましたって言っても、ね」
「じゃぁ、修法は見せかけ?」
「どうとるのかは、ヒナに任せるけど。そうだね、護摩の代わりに、薬湯を煎じたりはしたけど、読経に手を抜いたつもりもない」
「そうだったんですか」
「本当に、嘘吐いてごめんね」
「いえ、だって、クモさんはおばちゃんの病を治してくださったのは変わらない事実ですから」
「ヒナにそう言ってもらえると、救われる」
本当に安心したと言う感じで、目元を綻ばせ、笑みを見せるクモさんに、私の胸は今日一番の高鳴りをする。深更のような真っ暗な色だと言うのに、どうしてこうも色々な感情を見せる瞳なんだろう。あまりに深さに驚くように、反射的に視線を逸らす。
「ヒナにならね、話しても大丈夫かなって思ってたんだけど…、やっぱり知らない方が良かったかな?」
声の調子を聊か落とすクモさんに、私は慌てて言葉を捜す。
「そんな事ありません」
「そう?でも、瞳がひどく彷徨っているように感じるんだけど」
「え?」
「今までなら身をまっすぐに見つめてくれる瞳が、不自然なくらい逸らされてしまってるから」
この胸の動揺まで全て見透かされているような気がして、どきりとする。そんなに私の視線は、明け透けなものだったのかと恥じ入るしかない。
「すいません。その深い意味はなかったんですが、不躾でしたよね」
「うん?」
「でも、私、そんなに凝視してましたか?」
「いや、咎められる程ものじゃないと思うよ。と言うより、身もヒナを見つめる機会が多いから、気付いただけの事かもしれないし」
恐る恐る誤魔化すようにして伺った言葉に返って来たのは、絶句するしかない返答。一体、どういう意味で取れば良いのかな?
確かに視線に気付くと言うのは、見られている側が見ている側を意識して、そちらに視線を移すからとも言えるけれど、…そもそも、私見られてるの?
「だから、こちらこそ、気を悪くしていたら、申し訳ないな」
「そんな…いえ、大丈夫です」
「じゃぁ、お互い様って事で良いのかな?」
「はい。もちろんです」
「良かった。ついでと言っては何だけど、彷徨う瞳の理由も教えてもらえないかな?修法の所為だとしたら、どうしても秘密にしておいて欲しいってわけじゃないから、戸野殿にも事情を説明するし。話してしまった事で、ヒナに負担を掛けてしまったのなら」
「いえ、そうじゃないんです。修法の事、驚いてないって言ったら嘘になりますけど…、と言うより、本当におばちゃんはクスリで?」
瞳の彷徨う理由?そんなの落ち着かない思考で、上手く導きだせるわけもなかったけど、多分理由は一つっきりってわけでもないと思う。落ち着かせるように、ゆっくり話しながら、ここで初めて、おばちゃんが修法ではなく、クスリで治ったのだという事実が自分の頭の中に入ってきた。
そりゃ、京からクスリを取り寄せてはいたけど、その場凌ぎみたいなもので、治せるとしたら徳の高い験者さまだと思っていたから、クモさんを見上げて、再度聞いてしまった。
「まぁ、サワ殿の深い信心に、御仏の御心が動かされ、身に法力を与え下さったとも考えられるけど…、その御慈悲を加えたとしても、あの手の病を治せるほど、身が徳を纏っているとは思えないから、きっとクスリの効能だと思う」
質問にはっきりと答えもせず、逆に質問を返すという何とも礼を失した行いにも、クモさんは寛容で、少し困ったように笑みを見せる。
「でも、どうして、クモさんはクスリを作れるの?」
「京でクスリの知識をね、少し齧ったんだ」
「クスリの知識…、薬士さまなんですか?」
「ううん、身はただの僧籍者だよ。本草学と呼ばれる、シンタンから伝わった病を治すための学問があって、それを記した本を読んだ事があるんだ。寺院は、そういう類の漢籍を読むのに事欠かない場所だったから、暇を見つけては色々分野を問わずに読んでたんだけど、本草学はとくに興味惹かれるところがあって。こんな話は、信じられない?」
「いえ、ヤマには、仏の道が書かれた内典の量もさることながら、それ以外の漢籍も多く所蔵してて、その外典の知識を学ぶためだけに上る人がいるって話を聞いた事がありますから。それに、験者さまがわざわざそう告白する理由なんて見当たらないですし」
「じゃぁ、どうしてそんなに戸惑っているの?」
私がまだうろたえていると感じているのは、残念ながら、私だけじゃなかったらしい。
クモさんの説明に一応は納得できてしまった。すんなりそうなのかもしれないと思えてしまった。にも関わらず、まともにクモさんを見つめ返す事が出来ない。往生際悪く、必死で探してみるけれど、思いつくのは只一つ。

でも、一体、どう言えば良いんだろう。

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