戦国の花嫁■■■亡国の紅梅 湖国の菖蒲21■


夕闇が、橙色を染めていき、夜の帳が降りていく。
もう一度、頭の中で、復習できるくらいの時をおいて、あやめ殿がおいでになった。
「不束者ですが、どうぞよしなに」
三つ指を着いて、深く礼をとる。その背中に、こちらこそ、と呟きに近い声がかかる。緊張か、憎悪か?それを見定めるため、顔を上げた。
燭台の灯火は、表情を伺うには心許なかったけれど、反らされた視線に、その心を推し量って、気持ちを引き締める。
「そんな瞳で見ないでくれませんか?」
視線が重なったと思ったら、そう言われ、目を瞬いた。
「そんな瞳?」
って、どんな瞳をしていただろう?
「僕を通して、兄者を見てる、そんな瞳ですよ」
「え?」
「あなたの瞳は、僕の中の兄者を追っているだけでしょう?そんな目で見ないで下さい」
「あやめ殿の中の行護殿…? 」
「あなたは兄者の嫁になるはずだった。兄者に会えることを望んでいたのでしょう?」
「望んでいなかったと言えば、嘘になります。でも、だからって、今の私は、そんな事など考えてもいませんでした」
そうですか?…と、あやめ殿は、自嘲気味に微笑んで、ため息を吐く。
今の今まで、行護殿の名を、あやめ殿が口に出すまで、思い出しもしなかったが、出会った端の頃は、確かに、あやめ殿に彼を重ねていた。今の成人の姿は、あの時、思い描いた行護殿の姿によく似ている。けれど、彼とあやめ殿は違うって、もう知っている。でも、それをしなくなったのはいつからだろう?行護殿からの文を手にしなくなったのと同じくらいの頃かもしれない。
そして、今、あやめ殿は、そう勘違いしていて、何かひどく傷付いている。
「もし、私の瞳が、あやめ殿の中の行護殿を追っているように見えると言うのなら、それは、私の瞳の中に映る、あやめ殿自身が行護殿に見ているからかもしれませんね」
「何を屁理屈のようなことを」
「そうですね、でも、今となっては、瞳の中に映る姿、それくらい、私の中で行護殿は小さな存在なのです」
「誤魔化しは、いりませんよ。あなたが、兄者を思っている事は知ってます」
「わたしが、行護殿を、思っている?」
言われたことの意味がよく分からなくて、区切って、ゆっくりと問い返す。
「違う、とでも言うつもりですか?兄者からの文を何度も見返してましたよね?大事そうに手にして、勤行も欠かさずに」
そう言ってまた、皮肉っぽく笑うあやめ殿の表情に、無性に腹がたった。
「それは、私の夫は行護殿で、あやめ殿に嫁ぐのは、本意ではない、と私が思っていると言う意味ですか?」
「えぇ」
疑いようのないことだ、とでも言うように、短く告げられた言葉に、何かがぷつんと切れた。
「なぜ今になって、そんなありもしない疑いを私に向けるのですか?それとも、あやめ殿の方こそ、此度の祝言がお嫌なのでは?今となっては、なかったことにはできませんが、明日にでも、お義母さまにご相談して、あやめ殿に見合った姫を選びましょう」
早口にそう捲し立てる。
やはり、やはり、後悔してるんだわ。
考えていた通り、行護殿への思いが、私への同情になっただけで、私なんか、歳が嵩んだおばさんくらいにしか思ってない。眼中にもないに違いない。
私の気持ちに気付いてるのに、そんな風に言えてしまうあやめ殿は、やはり若くて、見目の良い男だと言う自負があるからなんだろう。
そして、憎むべき私には、どんな情けも掛けたりはしない。
「僕に見合う姫、ね。少なくとも、あなた自身は、そうではないとでも?」
「それは、わたしが決めることではないのでは?」
「決めたとしても、そんなの嫌だって意味?」
くすり、と、もう一度あやめ殿は笑う。
嫌なわけないって、分かってるはずなのに、まるで、私の心を切り刻むつもりのように、鋭さを増す。つもり、じゃなくて、切り刻みたいのだ。
そこまで、私は、嫌われて、憎まれていたんだ、と知った。まさか、そこまで恨まれているとは、思いたくなかったのに…。
「あやめ殿が、私を恨むのは仕方ありません。でも、こんな風にされるくらいなら、いっそ仇として殺して下さい」
「僕が、あなたを、恨む?」
今度は、あやめ殿が、私の言葉を聞き返す。
「私は、あやめ殿の大切な兄上さまを、泉下へ追いやった張本人です。仇と思うことがあっても、嫁になどとは、思えなかったのではありませんか?」
「まさか!そんな事…殺したいだなんて、考えたことすらありませんよ」
「本当でしょうか?私との婚姻がなければ、行護殿は怪我を負うことも、まして、母の形見を貰い受けることもなかったのです。ただの敵として、栗谷を攻め、功名を手にしていたに違いありません。私さえいなければ、行護殿は死ななかったんです。私が、行護殿を殺したようなものですよね?」
「あなたがいなければ、確かに兄者はあんな無茶をしなかったでしょう。でも、それまでして、兄者はあなたを大切にしたかった。あなたの大切なものを守りたかったんだ。そんな兄者の大切な存在を、傷付けたいなどとどうして考えるんですか?」
「恨んでいないのですか?」
私は、まだ高月殿が憎いのに。
「まだ…気持ちを整理するには、時間が足りません。でも、殺したいなどという感情はありませんよ」
「では、あの瞳は?いまだって、私を見つめる闇のような暗い視線は、一体なんだと言うのですか?憎いからなのでしょう?」
「それは…」
「正直に仰ってください。あやめ殿は、人の機微を感じられるお方です。私の気持ちなど、とうに気付いているのでしょうけれど、そんなことはお気になさらず、嫌だと、憎いと、そう告げてくださって構いません」
「あなたの、気持ち?」
あやめ殿は、真っ黒な大きな瞳を、一際大きく見開いて、まっすぐ私を見つめたけれど、すぐに頭を振った。
「分かりきったことでしょう?あなたは、兄者に思いを寄せてる。人の心など、どうにもできない。その事と、あなたを憎むことと何の関係があるんです?」
一層瞳を闇に染め、またあの笑顔を浮かべる。
今、あやめ殿は、傷付いて、悲しんでいる。そう思い、確信する。
わたしの思いを、あやめ殿は知らないのだ、と。
殺したいほど恨んでいないのなら、告げてもいいのだろうか?
最初で最後だもの。端切れを渡されたあの日から、何も言わず、何も言われず、会わずに過ごしてきた。でも、そんなのは、もう我慢できない。告げて、嫌われて、すっきりしたい。言葉ではっきり伝えて、言葉できちんと拒絶されたかった。
「お会いすること叶いませんでしたが…行護殿は、私の初めての夫です。そして、あやめ殿の兄上さまです。忘れることなどできますか?でも、それは、思いを寄せる事とは違います。私がここにいるのは、あやめ殿がここにいるからです」
まさか!と言う表情を浮かべるあやめ殿を見て、少し寂しく思った。
祝言までの長いようで短い日々の中で、あやめ殿と過ごした時間は、私にとっては決して短いものではなかったのに。あやめ殿にとっては、ただの時間に過ぎなかったってことらしい。
「あやめ殿にとっては、憎むべき相手かもしれませんが、私は、あやめ殿をお慕いしています」
「ちょっ…ちょっと待って。何?何、どういうこと?俺があなたを憎んでいる?あなたが、俺を好き?兄者じゃなくて、俺を?それって、つまり、何?全部、俺の勘違いってこと?何それ」
いつもとは全く違う砕けた口調で、まるで独り言のように一気に捲し立てるようにあやめ殿は口を開いた。私に伝える気はないのだろう、後半はもう私には聞き取れなくて、あやめ殿は、考えるように、黙り込む。

「なんか、お互いに勘違いがあるみたいなんだけど…それを整理してもいい?」
漸く、口を開いたあやめ殿に、私は頷いた。

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