戦国の花嫁■■■亡国の紅梅 湖国の菖蒲12■


私は、高月殿が、父の死を悔やまれる理由がわからないのです、と言った彼女の瞳が、一層大きく揺らいだ。
また零れてしまう。そう思う間にも、大粒の涙は、彼女の頬を濡らした。ああ、俺が泣かしてるんだな、と思ったものの、止める術など今の俺にはなかったから、零れる涙をただ見つめた。
遺族である彼女に対して、使ってはいけない言葉を口にした俺に怒るではなく、高月殿への怨みを口にして、静かに座を辞したその背中に掛ける言葉が見つからなかった。
いくつか思い浮かんだ慰めの言葉も、出会ったばかりの俺なんかに言われても、薄っぺらい同情のようにしか思えないだろうから、彼女に何を言ったら良いのか分からなかった。
俺だって、そうだ。
兄者の事で、今どんな慰めをもらったとしても、俺の心には響かない。それくらい大事な存在だったんだ。そんな人を失って、平気でいられるわけがない。
花一揆をしていた頃なら、激しい叱責を受けただろう失態に、自分でも蹴りを入れたくなる。
彼女は、当て付けだと言ったが、きっと俺だって、似たようなものだ。
心の整理がまだ追いついていない。

兄者の嫁が決まった事で、その後こんな未来が訪れるなど、誰が想像しただろう?
なぜ、兄者が死んだのか?死の報せを聞いてからも、弔いを済ませても、実感が湧かなかった。
だって、そうだろう?
栗谷を守るのは、鬼敦賀と怖れられた猛将とは言え、多勢に無勢。
だから、栗谷を攻める事に、危機感を抱いた者はいなかったし、俺も、親兄弟が出兵すると聞いても、それほど心配はしていなかった。父も兄者も、修羅場をくぐった歴戦の将だ。万が一なんて事は、考えるだけ不孝者と思っていた。
何しろ、戦に向かう当人である兄者からの文にも、この戦が済んだら、すぐにでも祝言を挙げるから、帰り支度を済ませとけ、とあったから、余程楽しみにしているらしい兄者の様子を想像して、戦のことなど二の次に、こちらまで楽しみになっていたくらいだ。
だから、兄者が、一体どんな無茶をして、死ぬような大怪我を負うことになったのか、想像もできないでいた。そして、三日前、兄者の許にいた乳兄弟から、文を渡されて、知る事になった。

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渡したきり口を結んだ乳兄弟に目もくれず、草臥れた文を、破れないようにそっと開く。

親父にも、高官方にも、相談してみたが、城を落とさずには、いられないようだ。
栗谷殿には、お会いしたことはないが、鬼敦賀と言われるほどの御仁には違いないから、わしが何を言ったからと言って、栗谷殿が城を簡単に渡してくれるはずはないだろう。だが、城は落ちる。援軍は望めないだろうから、一月も持たないはずだ。そんなこと、栗谷殿がわからないはずない。でも、退くことなく、応戦姿勢を見せている。
だけど、栗谷は、ただの功名じゃない、、、彼女の故郷なんだ。どうすることが、最善なのか、分からない。でも、誰もが満足行く結果をもたらしたりは、きっと無理だから、今、筆を執っているんだと思う。
わしは、武士だ。妻の故郷を救うのは、当然だと思う。たとえ、そもそもが、敵国だとしても。
だから、わしは、すべきだと思うことをする。わし一人で出来ることなど知れているが、何もしないまま、彼女に会うことなどできない。それが、わしの武士としての誇りだ。
戦場では、誰にいつ読まれるか知れないから、お前の乳兄弟に預けておく。
折を見て、お袋にも話しておいてくれ。
そう文には書かれていた。

「兄者は、死ぬつもりだったのか?」
文を読む間、固唾を飲んで見守っていた乳兄弟に尋ねる。
「いや。そのようには見受けられなかった。ただ、見通しがつかないから、渡しておくって言ってた。多分、まだ何かできることがあるって思ってたんじゃないかな?」
「そう。…それで、兄者は何をしようとしてたんだ?」
「戦が始まってすぐ、流れ矢が飛んできたんだ。突然すぎて、何が起こったのか、分からなかった。でも、行護殿の馬が、驚いたように暴れて、行護殿が振り落とされた」
「兄者が落馬?」
「とにかく、早く手当てをしなくちゃって、慌てて自陣に戻ろうとしたんだ。手負いだって敵に知られたら、それこそ降って湧いた功名だからな。でも、行護殿は、断ったんだ。やることがあるからって」
「やること?」
「そう言うと、笠印をもぎ取って、例の文を俺に渡すと、本丸の方へ向かった」
「何しに行ったんだ?」
「それは、わからない」
「なぜ?」
「ついてくるな、と言われた。この文を託すのは、必ずあやめに渡してもらいたいからだって。だけど…多分、花嫁の家族を救おうとしたんじゃないかなって、俺は思ってる」
これ…と言って、差し出されたのは、上掛けの切れ端のようなものだった。血にまみれて、鮮やかな輝きはなくなっていた。
「その後、自陣に運ばれてきた行護殿は、まだ意識があって、その時、これを俺に手渡した。もう話せなかったから、詳しくは分からないけど、栗谷の姫の家族のものじゃないかな」
「その間に何があったんだ?落馬の時の怪我は、大したことなかったんだろ?」
「あぁ、傷を負ったように見えた左の脇腹に傷跡なんて見当たらなかったから、きっとあれは、隊列から外れるための狂言だったんだと思う」
「じゃぁ、本丸に向かう前後で?」
「たぶん、その端切れを手にした後だ。行護殿を運んできた奴の話では、深追いしてた見方の兵を庇ってたようだったって。大手にいるはずの行護殿が、搦め手にいるなんて、何があったんだって尋ねられて、答えに窮した覚えがある」
「自陣に運ばれてきた時には、もう手の施しようがないくらいの出血だった。俺の目をしっかりと見て、あやめ、と声になってなかったけど、確かにそう口にして、俺にこの布切れを渡した」
「他には?」
「何も。そう言えば、行護殿が運ばれてくる少し前に、本丸から火が上がったって騒ぎなっていたのを覚えてる。行護殿は、本丸に向かったと思ってたから、何かあったらって、そればかり考えていたから」
「そっか…ありがとな」
「あやめ殿」
生まれてからこの方、そんな呼ばれ方をこいつにされた事がなくて、驚いて、伊八を見た。
「力になれず、すみませんでした。どうぞ、存分に処分下さい」
そう言って、跪き、刀を前に置くと、乳兄弟、伊八は、土下座した。その展開について行けず、俺は、はぁ?とすっとんきょうな声を出した。
しかし、伊八は、俺が何かを口にするまで動かないつもりなんだろう。
「俺に、この文を渡すことが、兄者の命令だったんだろ?」
「はい。ですが、俺は、行護殿の気持ちを知っていた」
「だから、何かできたんじゃないかって?」
「せめて、盾にはなれたはずだ」
「じゃあ、誰が、その文を俺に渡す?兄者の気持ちを伝える?…自責の念に酔いしれて、問題を履き違えるなよ。その時、伊八にできたのは、生き残ることだ。兄者を守ることじゃない。それについて、伊八を責める奴なんて、一人もいない!」
それだけ言って、俺は、伊八に背を向けて、足早に立ち去った。

手にある端切れを広げて見る。
織りのしっかりとした錦だと思う。
誰の血だろうか?べったりと着いたそれは、元の色を分からなくさせるほど、染み込んでいた。
わっかになったそれの一方の端は、乱雑に切り裂かれたのだろう、びりびりになっていた。
形状からして、袖口。
しかも、女物だ。

つまり、本当に、兄者は、まだ見ぬ花嫁のために、その家族を救おうとした?その結果、怪我をした。まぁ、現実としては、誰一人生き残ってはいないし、真実は分からないまま。

彼女なら、もしかしたら、この端切れの持ち主を知っているのかもしれない、と思う。

これを見せれば、彼女は、罪悪感に苛まれるだろう。細かく話さなくても、戦の混乱した状況で、敵の本丸になど普通行けるものじゃない。無理をしたのだと思うだろう。そして、その無理をしたのは、兄者だと気付くだろう。そして、それによって、兄者は死んだのではないか、と考えるに違いない。

どうすれば良いのかわからず、手渡せずにいるそれを俺は行李の中にしまった。

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それから、三日、どう話そうか考えてはいるけれど、皆目検討もつかない。
今朝の口ぶりでは、兄者を恨んだりはしてないってのは確実みたいだけど、話し方ではどうなるか分からない。
しかし、兄者の行動の意味は、分かった。
その時の兄者の本心を知れるほど、俺は近くにいなくて、予想もしなかった事を考えていたって事だ。違うな。花嫁を迎える事を心から喜び、祝言を挙げるつもりだったのも、本心だったんだ。ただ文字にしてはいけない思いもあっただけ。
会ってもいない相手にどれほどの思いを寄せていたんだろう?
俺がどう思うかなど少しも考えてなかったんじゃないかと思うと、悔しかった。
けれど、彼女にとって、俺は夫で、この柏原で頼れる数少ない者なはずだ。
そこまで考えて、漸く重い腰を持ち上げた。
俺自身、彼女とどう付き合っていけば良いのか、正直分からないけれど、兄者が大切にしたいと願った存在であることは間違いがなかった。それに報いる事が、とりあえず、今の俺に分かる、彼女への接し方に違いなかった。

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