戦国の花嫁■■■最果ての花嫁04■


「儀郷くん、痛い」
そう口に出してみるものの、男は、更に力を強めるだけだった。
「痛いってば!」
渾身の力で、腕を振ってみるが、ガッチリと掴まれた二の腕は外れることはなく、娘は当惑する。一体、何の非があって、自分はこんな目に会わなくちゃいけないのか。男の変貌ぶりに、ともすれば、溢れそうになる涙をグッと堪え、もう一度、痛いと口に出してみたが、自分でも驚くほど、か細く消え入りそうなものだった。

急に立ち止まった男の動きについていくことができず、つんのめるようにして、二三歩出たところで、男によって、支えられる。
そこで漸く、腕の戒めが解かれほっとしたのもつかの間、男が口を開く。
「なんで、何もないとか言うわけ?」
早足で歩かされた上、腕の痛みも相まって、先程のやりとりを忘れかけていた娘は、男をただ見つめ返した。
男は、今まで見たこともないような不機嫌な表情を浮かべ、恨めしそうに娘を見ている。
「あの人達が言うようなことは何もないからよ」
「何もないって?冗談はよせよ。それとも何か、俺の気持ちは全然届いてないってこと?」
そんなことはない、と口にしようとした娘は、考える。男の気持ちが自分に届いているなら、自分は何かを返しているのだろうか。返しているなら、それは、何もない関係ではなくなってしまうのではないか。でも、そんなはずない。
「だんまりは、肯定ってこと?」
「儀郷くんの気持ちが私に届いてるとしても、それ以上の事なんてないじゃない」
「俺を振るってこと?」
一層低い声で囁かれた言葉に、娘の胸は締め付けられた。
「振るとか振らないとか、そう言うことじゃなくて。だって、私はエミシよ?しかも、捕虜だわ」
「だから、何?」
「何って…気にならないの?」
「気にするべきなのかもね。でも、どうしようもないじゃないか」
急に伸びた男の腕を、もちろん娘はかわせるはずもなく、あっという間に、抱きすくめられた。頭を胸にぐっと押さえつけられて、娘は訳もわからず、頬を赤く染めた。
「姫君に思いを伝えずして、この胸の高鳴りをどうおさめたら良い?」
そう言われて感じるのは、男の熱い体温とどくんどくんと早鐘を打つ胸の鼓動だった。
「おまえを帰したくないんだ…。だから、なんでもないだなんて言うなよ」
掠れた低い声は、恐ろしいほど艶っぽくて、娘は、逃げなくては、と思った。
これ以上聞いてはいけない。聞くことが、ひどく恐ろしく感じられたのだ。
「わかった。わかったから、儀郷くん離して」
「嫌だね。分かったなんて言葉が聞きたいんじゃないことくらい、分かってるんだろ?」
「分からないよ。お願い、離して」
「離さない。やっと見つけたおまえをそう簡単に諦めるなんて無理だよ」
一際大きく娘の胸が跳ねると、一筋の涙が零れ落ちた。
「俺が、ムツの人間。おまえが、エミシ。そんなこと関係ないくらい、おまえが好きだ」
好き、と言葉になった思いは、娘の心に大きく響いた。そしてまた、一粒の涙が零れる。その涙の意味を娘は考えようとするのだけれど、上手く纏まりそうにもなかった。
「私は…やっぱり、わかんないよ。儀郷くんのこと大切だけど、ムツとエゾを越えてまで一緒にいたいなんて…考えたこともない。私は、エゾに帰るんだって、ずっと思ってたから」
「エゾを逃げ道にするなよ。俺が、聞きたいのは、どうするか、じゃなくて、どうしたいかだ。おまえは、俺といたくない?二度と会えなくなっても、それで平気なのか?」
男と会えなくなる。それは、どういうことなのだろう、と娘は考える。
この熱い煮えたぎるような瞳を見ることもないし、こんな風に情熱的に抱き締め思いを伝えられることもない。
それは、ひどく寂しいことのように感じられた。
本当にどうしたいと言うのだろう。
この村で生活するようになって、エゾに帰りたいと思った日はあっただろうか。
いつも、楽しませてくれる男が側にいてくれたから、寂しさも孤独も感じることなく暮らしていたのではないか。 日常に、男が溶け込んでしまったのだと、娘は知った。
「儀郷くんと一緒にいたい」
ぽつりと呟いた言葉は涙混じりで、でも、きちんと伝わったのだろう、男の回した腕の力がさらに強められたかと思うと、足が宙に浮き、なんと回り始めたから、娘は慌てて男にしがみつく。
もうなるようになれ、と娘は思った。

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