戦国の花嫁■■■天下人の種09■


御熊野の牛王符に誓う。

殿のその言葉に、私は自分の意志を突き通す為の上手い口上が思い浮かばないまま、殿の意志を尊重する事にした。
私の神仏に対する価値観はともかくとして、やはり、土地の者らしく、殿は、牛王符を敬っているようで、そこまで言った殿の言葉を信じないのは、ただの強欲に思えたのだ。
しかし、そうは言っても、一日でも早く、その約束の日が来るよう努める事は、殿の誓いと相反しはしないだろうと思い考えては見るものの、私は何の対策も打てないまま、幾日かが無下に過ぎていった。

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今夜は、月の出が遅いと言うのに、月は、青銀の光を放ち、夜空に浮かんでいる。
夜も更けた、そんな時間なのに、殿は現れない。
とうとう、殿が来なくなった?!
そこまで蔑ろにされる道理が分からなかった。
そんな時、女子と言うのは、涙の一つも流すものなのだろうけれど、あの殿相手に渇かぬ袖を見せてみたところで、素知らぬ振りをするのは目に見えている。それに、泣くと目が腫れぼったくなって、見た目も悪化するだけ。何も益がない。
ならば、どんなに心美しい涙を流したところで、そんなの流すだけ無駄。
探し出して、文句の一つでも言ってやろう。
適当に服装を整えて、部屋を出る。
さて、この、古いけれど、広さだけはある屋敷の、一体どこに殿はいるのだろう?
射場…は、いくらなんでもないだろう。殿は、一日をどのように過ごしているのかしら?妻として、それくらいは把握しておく必要があるだろうか?
とりあえず、当て所もなく歩いてみる事にした。

こっちは、確か、屋敷に駐在する若侍達のいる区画だったかしら?もしかしたら、殿も、どこぞの若造達と呑み交わしているかもしれない。
何の迷いもなく、そちらに足を向けると、そんなに進まない所で、漏れ聞こえてきた声に、はっとする。
艶のある落ち着いた低音。
「そうだ、もっと力を抜いて。そう、良い子だ」
聞き知った男の声だった。
見てはいけない、聞いてはいけない、そう思うのに、体は言う事をきかなかった。
まるで私を誘うように、襖が少し開いている。息を凝らして、中に入った。

くぐもったような甘い声が、漏れてくる。
几帳の向こうでは、今まさに、私の知らない世界が繰り広げられているらしかった。
「あっ、そのような!」
相手が、耐えかねたような声を出す。
え?
思わず力が籠った手が、几帳を押す。
ばたん。
何とも間抜けな音をたてて、几帳が倒れた。
驚いたようにして、その向こうにいた二つの影がこちらを見る。
「わ、私はこれにて!」
乱れた着衣をほとんど直すさず、脱兎のごとく去って行った姿を呆然と見ている事しかできない。
沈黙が訪れた。
え?え?どういう事?
混乱しすぎて、今見た現実を受け止められない。
「あぁあ、せっかく口説き落とした所だったのに」
それほど残念と言う風でもなく、余裕綽々、笑いながら、残された男子は言った。
寝所を出た時と変わらず、月は雲のない夜空にあるようで、部屋の中だと言うのに、その人物の姿をぼんやりと照らす。
いえ、姿なんて見なくても、大きな背丈にちょうどいい、この大鼓のような低い声の持ち主が誰かなんて分からないわけがない。

「あの…輝宗殿」
「奥方様は、男同士の睦事に興味がおありで?」
輝宗殿は、可笑しそうに、また笑う。
男同士。
聞き間違えではないし、見間違えではなかったらしい。
だが、上手い返事が全く思い浮かばなかった。先程の自分の行動は、興味があったからなのだろうか?…分からない。
「ところで、こんな時間に何をしているんですか?」
「つ…月が綺麗だったもので」
月?ああ、そうですね、と笑いを含んだ声で返される。
完全に、からかわれている。
落ち着き払った大人の男だと思った。
太い眉、勇ましい瞳。そうだ、私は、こういう男が好みなのだ。
好みだったのに!
一度でも、抱かれる想像をした自分をどう扱ったらいいのか分からなかった。

殿を探すのを諦め、私は、その場を去った。
何も見なかった、そう言う事にしよう。

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