戦国の花嫁■■■天下人の種14■


「トヨ!」
物が散らばる音に続いて、響き渡った大きな声に、何事かとそちらに振り向いた。
それは、ちょうど渡り廊下の向こうで、殿が、一人の女子に慌てて近寄って行くところだった。
「大丈夫?」
女子の傍らにはぶちまけたらしい器が散乱していた。それを丁寧に拾う殿。
「若様、忝のうございます」
済まなさそうに、同じ様にして器を拾う女子がそう返す。
見ていられなかった。
足早にその場を立ち去り、部屋に戻る。
どきどきと弾む胸を両手で押さえる。
今見たものは、本当に現実だったのだろうか?本当に殿だった?なんだ、あの瞳は!あの表情は!あの振る舞いは! 全くの別人ではないか!
あんな優しい表情、見た事がなかった。あんなに慈しむ声を聞いた事がなかった。
でも、動揺する心とは裏腹に、思考は落ち着いていた。
祝言を挙げてから始まった、あの、頑ななまでの殿の態度と、そして、今の様子が、繋がったから。
なんだ、そういう事だったのか、と納得した。

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その夜の事。
いつものように無言で床に就こうとする殿の背中に声をかける。
「側女を持つことに不満はありません。ですが、まず約束を果たしてからにしていただけませんか?」
「側女?…何の話?」
「トヨです。お好きなのでしょう?」
殿は、驚いたように目を見開いた。分からぬと思っていたのか。呆れそうになるけれど、表情は変えなかった。
「殿が誰に懸想しようと、それは構いません。私が欲しいのは、殿のお約束通り、長子の嫡男ですから」
「僕は、別に誰も思ってはいない」
「でしたら、どうして私を拒むのです?私は、殿の妻です。その私に子種を注ぐのは、夫としての務め、ただそれだけの事ではありませんか」
何と言おうが、殿は、トヨを思っているのだろう。現場は、きっちり押さえてあるから、殿が何を主張しようと、私の認識は覆りはしない。
けれど、心に思う女子がいながら、別の女子と祝言を挙げ、夫婦の契りを結ぶ、なんて事、婚儀を政治のダシにしかしない昨今の武家にあって、さほど珍しい事でもないし、この一連の事柄について、そうごねる事ではないのじゃないかしら。
まして、私の見込んだ男子が、そのような度量の狭い者であるはずがない。
少しばかり、瞳に非難の色を混ぜ込んで、殿を見る。
殿はと言えば、大きな瞳をさらに見開いた。何かに驚いているようだった。
「私に注ぐ子種など、殿にはないと言うのですか?」
殿は、また、驚いた感じで、私を凝視すると、考えるようにして、瞳をぐるりと一回転させて、もう一度、私をしっかりと見つめた。
「子種、子種って。何をそんなに急いでるの?…もしかして、もうすでに胎に子がいるんじゃない?」
てっきり、そんなものない、僕の好きにさせてくれって言ったでしょ等と言うような否定の言葉が返ってくるとばかり考えていたから、今、殿が何を言ったのか、何について話し始めたのか付いていけなかったから、私は、真顔で殿を見返した。
「あれ、図星?とんでもない姫だな、あんたは」
軽蔑の視線を投げ掛けられて、ようやく、その意味を理解する。
「なにをっ。私は、汚れなき乙女です」
「疑わしいな」
「それは、殿が私をお抱きになれば分かる事です」
「そう言って、上手く誤魔化して、僕の種ではない赤子を産み落とすつもりなわけ?」
「決してそのような事はありません。私は、殿の子種が欲しくて、ここにいるのです。他の殿方などと、何の益もないではないですか」
「誰の子種だろうと、子種は子種じゃないか」
「いいえ、私は天下人を産みたいのです。その為には、殿の子種が必要なのです」
「はあ?」
「強い男子の子種は、きっと天下人の種となります。私は、その子種が欲しいのです」
「…何、それ」
「ですから、今、私が、ここにいるのは、殿の子種をいただく、ただそれだけの為なのです」
殿は、何か珍しいものでも見るような目で、私を見た。
「何考えてるんだか、全然分かんないんだけどさ、あんたが僕の子種が欲しいのは分かった。僕も、それに異存はない。けれど、前にも言った通り、僕は僕の意志で、あんたに子種をやるつもりだから」
殿はそう言うと、床に入ってしまった。

何考えてんのか分かんない?って、何?私は、ただ、天下人を産みたいだけなんですけど!
武勲も立てる立派な若武者の殿には、分かってもらえると思っていたのだけれど、そんなにおかしな事を言っただろうか?

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