戦国の花嫁■■■天下人の種19■


着替えて戻ると、殿は床に就いていた。

ため息を一つ吐いて、私も床に横たわる。
寒くもないのに、体が震えて止まらない。腕を巻き付けてみるけど、少しも収まりそうになかった。
そうこうしていると、今度は、泣きたくもないのに、涙が頬を伝ってくる。
この震えと涙は、何?

ありったけの誘いは、曖昧に避わされた。
私の誘いは、殿をその気にさせるに足らない振る舞いだったって事?
こんな事になるくらいなら、男子の一人くらい手玉にとっておくべきだった。そうしたら、こんなしくじりはなかったはずだ。
でも、自信があった。そんなに間違った振る舞いだったとは、どうしても思えない。
これは、その矜持を傷付けられた事に対する怒りの震えなのだろうか?悔しさの涙なのだろうか?

違う。これは、そんな感情じゃない。

ありったけの誘いに、殿が少しも興味を示さなかった事が、悲しかったから。
殿の拒絶に、ひどく落胆しているから。
だって、それは、女子としての魅力がないのだと言われたようなものだと思った。
それが、ひどく悲しく、そして、恐ろしく感じられて、震え、泣いているのだ。
殿に、少しの情も持たれていない事が、悲しかった。だって、私は殿の妻なのに、触れる事に何の障害もないのに。一番簡単に触れる事のできる存在であってさえ、私には手を出そうと言う気にすらならなかったのだ。
そう思うと、胸が感じた事もないくらい痛み出す。ぐっと鷲掴みにされているような苦しさ。切り裂かれるような切なさ。
私の意志を受け入れてもらえなかったのは、初夜の時だって同じだったのに、あの時はこんな痛みなど感じなかった。私の何かが、あの時と今で違ってしまったって事。私の中での殿が、夢に描いた夫から、殿そのものとして変わってしまった。ただそれだけの事なのに、こんなにも苦しい。
この痛みを感じるのは、初めてだったけれど、その名前を私は知っている。
ああ、これは、恋だ。私は、殿が好きなのだ。好きだから、こんなにも辛く感じられるのだわ。
私の心に、その考えがすとんと収まった。

だからと言って、それについて、私は手を打つつもりはなかった。自覚してさえも、心より子種の方が大切に思えた。それに、もともと、そんなつもりで、ここに来たわけではない。
なにより、殿には、思う女子がいる。
その考えが、またずきりと芽生えた心に突き刺さり、反射のようにして、涙が溢れる。
涙など流すだけ無駄などと思ったのは、一体いつの事だったろう。

その夜、私は、涙を出るに任せ、静かに泣いた。


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明くる日、私は、いつも通りに、目を覚ます。
目を覚ました、と言う事は、つまり、いつの間にか、眠ってしまっていたって事らしい。
どんな事があろうとも、床に入れば熟睡できる自分の肝の太さに、少し頼もしさを感じる。これなら、例え、どんなに苦しい夜でも乗り越えられる。

そして、そっと視線を横に向ける。殿も、いつも通り、朝早くから、射場に行っているようだった。

いつもと変わらない一日の始まりだった。

そして、お義母様への挨拶が済んで、部屋を退出したところで、視線を感じて、殿を見る。なにやら、じっと見られていたらしかった。
「何か?」
「え?…うん、なんか、その…昨夜は、悪夢を見たようだし、それに…」
気まずそうに、殿は視線を外した。
泣くがままにした目は腫れぼったく、何より、お互いの呼吸が分かる距離にいたのだ、気付かないはずはない。
でも、涙の理由までは、わかりはしなかっただろう。分からせてなるものか。
「お気遣いありがとうございます。なれど、昨夜は、悪夢を見て、少しばかり心が弱っただけの事ですから」
公明正大な表情を作って、郷里をほんのり匂わすように言う。夫になった方には、決して嘘はつかない。それが私の信条だから、これくらいが限度だ。
「あぁ、うん…そっか」
「はい。ご心配お掛けし、申し訳ありませぬ」
今の私にできる最大限の、なけなしの笑みを作り、にこりと顔を微笑ませると、深更の瞳と重なる。そして、その透き通るような深い漆黒の闇でもって、じっと私の瞳が見定められる。
張ったりが、ばれてしまうかしら?
何かを窺うかのように、眉がしかめられる。
絶対にばらすものか、と私は更に瞳に力を入れた。
「…やっぱりさ、その…どうかした?」
「…どうか、とは?」
「どうって…なんか、いつもと感じが…違う?」
間をじっくり置いてから、小首を傾げて言われた事に、どきりとする。
怪しまれている。
でも、さすがは、私が見込んだ男子だわ。私の些細な心の変化に気付くなんて。
心の動揺はなんのその、そんな風に感心してる場合ではないから、私は顔色一つ変えずに、殿を見返す。
「いつもと、ですか?特に、これと言って、変わった事はありませんが」
「そう…なら、良いんだ」
じゃあ、僕は、これで、と背を向けて去って行く殿にちょっとがっかりする。
そこは、もう少し突っ込むところだわ。あっさりしすぎよ。
まあ、突っ込まれても、困るけど。

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