戦国の花嫁■■■天下人の種22■


むしゃくしゃする。
祝言からこの方、夜に眠れていないせいだろうか?だけど、昼寝をしても、全然気が晴れない。戦に出ているのかってくらい、疲弊してきた気がする。
射場に居たって、心は波立つばかりで、的なんて見定める事すらできないから、矢を番えるのを諦めた。自分の精神の弱さに、溜め息が出る。経方が死んだ時だって、どんだけ心は荒れてたか知らないけれど、こんな風にはならなかった。あの時は、心は研ぎ澄まされていて、いくら射ても、満足できなくて、ひたすら、弓を引いたのに、今回は全然ダメだった。
原因は、あいつだって事は、分かりきった事だけど、もう何をどうしていいのか、見当もつかなかった。
あいつの意志は、明確だったけれど、僕はと言えば、白も黒もつけられない。一向に、先に進める気がしなかった。

寝ても覚めても、始終、あの瞳が、僕を見つめる。
まっすぐと僕を射るように見つめる栗色の瞳。
僕の心の奥を見透かすような、僕の思考を読み取ろうとするような、そんな瞳。
あれは、何なんだろう。
あいつは、僕を見ている?
だって、あんな瞳を僕は知らない。
あんなに居ても立ってもいられないような気にさせられた事なんてない。

はあ…。
いつまで、こんな事が続くんだろう?
こんな事って、何だ?
眠れない事?
心が落ち着かない事?
あいつの瞳に動揺する事?
…そんなの何一つ、本質ではないし、問題の解決になってはいないな。
全ては、きっと…。

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人の気配がして、ふと目を開けた。
「…トヨ」
「このような格好では、風邪を召されてしまいます」
気付けば、いつしか転た寝をしていたらしい。トヨが、上着を掛けようとしてくれていた。
夕方の光は、どこか温かく優しい。そして、冷たい夕闇が、それを押し潰そうとしているかのように感じるのは、きっと僕の心境の問題なんだろう。
再び、夜が訪れようとしている。
延々と続く眠れぬ夜は、僕を狂わせようとしているのか。
なんなら、その狂ったままの勢いで、妻を抱いてしまえればいいのに。
なんで、妻が抱けないんだろう?
妻を抱くのは、嫡男としての義務なのに。
それに、嫡男が生まれてしまえば、トヨをこの手にしても、何の迷いもないではないのか。あいつは、自分の息子が嫡男でさえあれば、何も文句は言わないだろうし。実際、僕が約束さえ守れば、側女は云々とか言ってたし。そもそも、僕の心が、どこにあろうと、全く気にも留めないのだから。あいつにとって、大事なのは、僕ではない。僕の子種なんだから。
変に、僕に酔いしれて、要りもしない思いを抱かれるより、好都合じゃないか。
そんな関係なら、さっさと抱いてしまえば、それで済む。
見た目だけは、良いと感じるんだ。それに、あいつは、あの瞳を僕に向けない。長年の僕の葛藤を鑑みれば、抱けないはずがなかった。今までに出会った事がない種類の瞳に、まだ馴れなくって、その気にならないだけの事。僕が抱けるのは、あの射るような眼差しを持った、栗色の瞳。
そこまで考えて、胸に嫌なものが広がる。何なんだ、この不快感は。あいつを抱く事を少しでも想像するだけで、気分が悪くなる。胸が締め付けられる。
これは、一体どうしてだろう。
あいつを抱く事を、トヨに知られたくないんだろうか?
そうだ。僕の心は、トヨにあるのだから、そう思うのは、当然の事ではないか。
ずっと伝えられずにいた、この思いをトヨに洗いざらい、全部ぶちまけてしまえば、すっきりとした心持ちになって、妻を抱く気になるかもしれない。
嫡男としての務めを果たしたら、必ず、幸せにするから、信じて待っていてほしい。
そう約束すれば、僕も、トヨも、安心できるかもしれない。
そうだ。そうしてしまおう。
何もかも、今の状況を一掃したかった。何もかも、もう嫌だった。
一度、ゆっくりと深呼吸する。
「トヨ。話があるんだ」
「話ですか?」
少し小首を傾げて、トヨは僕を見る。
幼い頃から、僕を見知っているトヨでさえ、僕を見る瞳はあの瞳だ。まあ、その中に、幼い頃のままの、僕の後ろをよちよち付いてきた小さなトヨと同じ瞳も垣間見えるから、僕はトヨを他の女子と同じに扱おうとは思わないわけだけど。
「うん。ずっと、トヨに言えなかった事があるんだ。それを伝えたい」
僕の表情に何か思い当たったのか、トヨは、驚いたように目を見開いて、そして、一歩退いた。
でも、僕は、止めるつもりはなかったから、更に、一歩、歩み寄る。
「お戯れはおやめください」
僕の伸ばした指先が、陽に焼けた健康的な手に触れるギリギリのところで、トヨがそう言った。
「何、戯れだって?」
「はい。若様は、もう本当は分かっているのでしょう?」
僕が何を分かっているって?
そもそも、トヨは、何を分かっているのか。
僕は、トヨを好いている。それ以外何もない。
「トヨこそ、気付いているんでしょう?」
「分かっています」
トヨは、僕を見て、はっきりとそう言った。
気付かれていたのか。
「そう、知ってたの」
「そうではありません。若様は少し思い違いをされているようですが…若様にとって、私は、ただの妹に過ぎないのです」
「妹?」
思いもよらない言葉に、眉をしかめる。
トヨが、妹?
確かに、生まれて間もないトヨを見て、妹のように思った時もあった。けれど、今はそんな気持ちなど忘れてしまった。
僕の表情に、トヨは、困ったように笑う。
「そうです、妹です」
「僕にとって、トヨは妹なんかじゃない。気付かない振りなんて、しないでよ」
「いいえ、私は、妹です。庇護すべき弱い妹」
「じゃあ、僕の、この気持ちは何だって言うの?」
「妹に対する、ただの情ですよ」
これが?こんなに苦しいのに?これが、妹に抱く情だと言うのか?冗談じゃない。
「それに、お兄ちゃんの事があるから、余計にややこしくなったんだと思います」
「確かに、経方の分までとは思うけど、これは、そんな気持ちじゃない」
「いいえ、若様はお優しいから、そう思い込んでるだけですよ。ご存じないかも知れませんが、若様のせいで、寄り付く者も寄り付かないんですよ」
私の嫁ぎ先がなくなったら、どうされるおつもりですか?と、トヨは真剣な顔をして言う。

トヨの嫁ぎ先がなくなる?それなら、僕が責任をとる、と言う言葉が、信じられないけれど、出てこない。
さっきまで、それを伝えようとしていたんじゃなかったのか。今こそが、まさにその時じゃないか。なぜ、そう言えないのか?自分の心が分からなくなってきた。

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