戦国の花嫁■■■天下人の種23■


トヨは、にこりと笑うと、もう一歩後ろに退いた。
「ほら、お分かりになったでしょう?若様にとって、私は、乳兄弟であった経方の妹。幼い頃から見知った、気心の許せる女子でしかなかったのですよ」
「そんな事ない。僕は、トヨを!」
「いいえ。若様は、いつも私に与えてくださるばかり。私には何も求めてはくれませんでした」
「それは…僕の気持ちが、トヨを不幸にすると思っていたから」
母親の生まれ、ただそれだけで、嫡男になれない兄者。それでも、いつも笑みを絶やさない兄者の姿が目に浮かぶ。父上が悪いだなんて思わないけれど、僕はそのような子供を持つ気にはなれなかった。
「そう言って、若様は、恋に恋をされていただけなのです」
「違う。僕はちゃんとトヨを見てきた」
「なら、どうして、もっと早く、私に手を伸ばしてくださらなかったのですか?私を不幸にするから?恋とは、そんなものではないと私は思います。声が聞きたい。姿が見たい。いつも側にいたい。温もりを感じたい。深く、深く繋がりたい。そんな風に、相手を知る度、どんどん貪欲になるのが、恋なのではないでしょうか?」
それが、恋?
トヨに抱いていたのは、どんな気持ちだっただろうか?経方が死んで、頼る者のいなくなったトヨを何とかして、守りたかった。二度と悲しい思いもさせたくなかった。僕が側にいてやらなくてはいけない。だって、トヨは、すぐドジをするから。
それに、何より、経方が亡くなった時と同じ気持ちになど、僕自身が、二度と味わいたくはなかった。トヨがいなくなるなんて、僕には耐えられそうもなかったんだ。それくらいに大事に思っている。
そんな風に思う事は、恋ではないと言うのか?

知る度に、貪欲になる。
僕の中にある、そんな焦がれるような気持ちの先に、あの意味の分からない嫌悪感が思い浮かんだ。僕を見つめるしっかりとした栗色の瞳があった。
そんなはずない。
「僕は…」
「若様が、女子を毛嫌いされるのも、分かります。ですが、若様を、本当の若様を見てくださる方は、ちゃんといらっしゃいますよ」
「本当の、僕」
「そうです。若様が、美しいだけではなく、強く逞しい若武者であると言う事を、あのお方はちゃんと分かってくださっています」
「そうかな。あいつ、僕の事と言えば、子種にしか、興味ないみたいだけど」
トヨの顔がみるみる赤くなる。それを見て、自分が今、何を言ったのか自覚する。あいつは、子種子種って恥ずかし気もなく連呼するけど、本来、女子が口にするものでもないし、女子に軽々しく言う言葉ではなかった。
あいつの口から、始めてその言葉を聞いた時、どんなに驚いた事か思い出す。
「あっ、悪い。その、なんて言うんだろう、あいつの望みは、僕の心じゃなくて、僕との子供が欲しいだけなんだ、と思うんだ」
「私は、農民の子なので、よく分かりませんが…武家の姫君がそう考えるのは、そう不思議な事とも思えませんけど」
確かに、そうかもしれないな、と思う。
母上は、北の方となってすぐに僕を産んでいるし、実際にそんな家を知らなかったけれど、男子を産めない武家の娘が、どのような扱いを受けるのか、知らないわけではなかった。
けれど、あいつの言動は、母上から嫌味を言われたり、屋敷中の者から憐れな視線を向けられたりするのを厭うからではない。ただ天下人を産みたい、その一心から来るものだろうから、トヨの言う、武家の姫君がって言うのとは、ちょっと違う気もした。
まあ、子が欲しいってところでは同じなのだから、同じようなものなのかもしれないけど。
もしかして、武家の他の女子も、天下人を産みたい、とか腹に一物抱えてたりするんだろうか。
いやいや、あんな女子は、あいつ一人で十分だし、あいつしかいないに決まっている。…と思いたい。
「何て言うのかな…あいつの言う事、する事、全て明からさま過ぎるって言うか」
「若様は、奥方様のお心が欲しいのですね」
「あいつの心…欲しいのかな」
「だって、若様は、奥方様のように、ただお子を、と言うわけではないのですよね?」
あいつとの子供。
いつか、必ず、嫡男を産ませる、とか言ったけど、具体的に考えた事がなかったように思う。漠然と、跡取り息子としての義務だ、くらいにしか考えていなかった。
あいつとの子供…か。
確かに、産んでほしいと思った。
でも、それは、家のためとか言う義務なんかじゃなくて、天下人となる息子が欲しいなんて言う野望とかじゃなくて、思い合った先の結果として、生まれてきて欲しい、そう思った。
でも、あいつには、そんな考え、微塵もないんだろうなって思ったら、自覚したばかりの心が、切ないくらい、ぎゅっと締め付けられる。
「…うん、そうだね。欲しい」
「それは、宜しゅうございました」
「え?…何が?」
何が宜しいって言うの?
だって、夫婦、見事な、意志のすれ違いだよ?
驚いて目を剥くと、トヨは安心しろとばかりに笑みを見せた。
「だって、幸運な事ではありませんか。思い人が、妻なのですから。それに、お子を産んでもいいとまで言われているのです。後は、振り向かせるだけではありませんか?」
振り向かせるだけ?
すでに、祝言も挙げ、子を産みたいとまで確約されてる。足らないのは、あいつの心。
まあ、それが手に入ったとしたのなら、僕の思い描く未来が訪れるのだろう。
だがしかし、果たして、そう簡単に行くだろうか?
「なんか、すごく難しい事のように思えるんだけど」
「恋とは、得難いものです。だから、思い悩み、苦い思いもしなくては」
「…トヨは、まるで恋を知っているかのようだね」
僕の呟きに、トヨは、驚いたように、目を瞬かせて、笑った。
え、何?また、変な事言った?
「私だって、年頃の娘ですよ?恋の一つや二つ、経験しています」
「えっ?それ、ほんと?」
トヨが恋を?
何それ、聞いてないし、知らない。
一体どこのどいつだ。トヨは、この屋敷を出ないから、僕の知ってる奴だろう。一度目を付けたなら、ちゃんと最後まで責任を取れ。と言うか、僕に挨拶の一つでもするべきじゃないか。
そこまで考えて、あれ、これって、経方が言いそうな事だなって思う。
「人目を忍ぶようなものではなかったのですが…つまり、若様は、私に、恋などしていなかったわけですよ。気付いてくれたのなら、私にだって、望みが持てたんですけれどね?まあ、私みたいな娘っ子が、物語の美丈夫同然の若様とどうかなるなんて、誰も信じてやなかったからこそ、私は、この屋敷でそれなりに居心地良くやっていけてるわけですけれども」
「そんな事ないって、だって、あいつは、僕の思いに、すぐ気付いたんだよ?」
「奥方様が?まさか、そんな風にお考えになられるなんて、ありえませんよ」
「実際、言われたんだ。トヨを側女にって考えてるのかって」
「それは…若様から、お話しされたのではなくて、ですか?」
「あいつからだよ。僕の気持ちについて、何か言う者なんていなかったから、驚いたんだ」
「そうでしょうね。この屋敷の者は、誰一人として、そんな風には考えてやいませんから」
そう言われてしまうと、二の句が継げられなかった。歴とした僕自身の気持ちだったんだけどな。
毎朝あんなに、落ち着いた気持ちで、自分の心と向き合ってるつもりだったけれど、これっぽっちも見えてやしなかったんだな。…まだまだ修練が足りてない証拠だ。まあ、祝言を挙げてからは、激しく波打つ心を落ち着かせる事なんてできてやしなかったけど。
「けれど、奥方様が、そのような勘違いをされるなど、あまり想像ができないのですが…」
「まあね。でも、何を見て、そう思ったのか知らないけど、僕にとってのトヨは、経方の妹ってだけじゃないと考えたみたいだよ」
「そうなのですか?」
どうしてでしょうね、とトヨは首を傾げた。
「トヨが気付いてないだけで、僕がトヨに思いを向けてるって思ってる人は、やっぱいたんじゃないの?」
「まさか。まぁ、この屋敷に入りたての人は、若様の奇異な行動に、そうなのかなと思うかもしれませんが、私が誰なのか知れば、すぐに、あぁそう言う事ね、だからあんな小娘にって考えを改めますよ」
「そんな、小娘だなんて…トヨは、十分可愛いよ」
生まれる前から、ずっと見てきた女子が、人からそんな風に思われるのは放っておけない。
トヨは、驚いた表情を見せた後、少しばかり頬を染め、照れたように俯く。
「分かっていても、そんな風に言われると、やはりぼうっとしてしまうものですね。…でも、そこが、皆に、あぁそうなのねって思わせる所以なのだと思います。私を可愛いなんて言うのなら、若様にはきっと沢山の恋人がいたことでしょう」
「え?どう言う事?」
「私くらいの女子なら、この屋敷にうじゃうじゃいますよ。それに、もっと見目の良い、良識のある女子も。それに見向きもしないで、私を見る、その理由は若様の美的感覚がおかしいのではなく、私が妹のような存在だから。誰しもが、皆そう結論付けますよ」
恋する相手としてではなく、妹としてしか、接してないように見えてたんだろうか?そうなんだろうか?もう自分がどんな風に振る舞っていたのか、それさえも分からなくなる。
「いや、だけどさ、僕は、トヨへの気持ちを隠してたわけだから、そんな風に見えてたのは、当然の事じゃないの?」
「恋のあれやこれやを知り尽くした手練れならまだしも、恋心を忍ばせるなんて芸当、若者にはそうそうできる事じゃないと思いますよ」
そもそも、分かりやすすぎでしたよ。私を大事に思っているのだと、誰の目で見ても、それだけは確かでしたから、とトヨは僕の発言を鼻で笑うかのようにして、軽々と一蹴した。
でも、確かにそうかもしれない。恋なんて言う未踏の気持ちを、手慣れた弓を操るように易々と、どうこう扱えるとは思えなかった。いや、扱えてると、自分では思ってたんだ。
「なんか…ねえ、ホントに、トヨだよね?なんだか、全然知らない女子のように思える」
「これくらいの事、年頃になれば誰しもが思い至る事だと思いますよ。立派に成人されていると言うのに、知らない若様の方が、珍しいのでは?」
取り澄まして、教え諭すような声色は、年下のくせに、まるで姉のような振る舞いだった。
なんだろう、反抗心が起こる。
「そんな事ない。僕は、トヨに恋をしていたんだ」
「そうでしたね」
「そうだよ!」
「でも、その経験は、奥方様への思いには、何の役にも立たない事でしょうね?」
だって、若様は思いをひた隠し、何一つとして行動を取ろうとはされなかったのですから、とトヨは笑ったけど、僕は、笑えない。

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