戦国の花嫁■■■天下人の種25■


どこに行ったのか、分からなかったけど、とりあえず、寝所に向かう。
足早に進んでいくと、妻の背中が見えた。
「ねえ、待って」
その言葉に、あいつは振り向いた。僕が、追いかけてくるなんて思いもしなかったんだろう、驚いた表情をした後、少し不機嫌そうな表情を浮かべて、何も言わず、部屋の中に入っていくから、僕もそれに続いた。
心情がどうであるにせよ、上座を僕に譲るあたり、分別のある武家の娘だと感心する。加えて、僕が座るのを見届けてから、頭を上げるのを忘れたりはしない。
ちゃんとした教育を受けてきた娘であり、何より今をときめくお館様の娘御。容姿だって、悪くない。体つきも、そこそこ、豊かだ。
こんな条件の女子など、そういるものではない。
若者なら誰もが、妻にと憧れる存在なのだと、今になって漸く理解した。
そんな女子を、僕は出会ってからこれまで、一体どんな風に扱ってきただろうか。
…。
三行半を書かされても、おかしくないかもしれない。
勇気を示す前に、まず謝罪が必要だろうか?
「まだ、謝り足りないとでも言いに来たのですか?」
忌々しそうに、あいつは僕を睨んだ。
その瞳の色に、今の今までの反省は何のその、またあの怒りがぶり返し、反射的に、言い返しそうになるけど、なんとか抑え付ける。
そんな言い合いをしに来たのではない。
僕の勇気が試されているんだ。
「僕が約束さえ守れば、あんたは、どんなものにでも謝る事など、踵を巡らすまでもないって事?」
「私は、天下人を産むために、ここにやってきたのですから、その為なら、膝を折る事になったとしても、それは大した事ではありません」
天下人を産む。
また、それか。
僕が、欲しいのは、そんな言葉ではない。
「トヨの事は致し方ありません。目を瞑りましょう。けれど、約束だけは守ってください」
「だから、トヨは関係ないと言ってる。それ以上、トヨを貶めるような事を言ったら、許さない」
「では、どうされるつもりなのですか?トヨを側女にと考えているのではないのですか?」
「そんな事、考えてない。トヨは、トヨだ。トヨには、何もしない」
「トヨにも、何もしない。私にも、何もしない。殿は、一体、何をするおつもりなのですか?」
「あんたには、何もしないとは言ってない」
「一応、約束を守る気はあるようですね」
それがいつになるのやら、って表情で、再び僕を睨め付ける。
僕は、武士だ。
戦う勇気だけじゃない、思いを告げる勇気だって、ちゃんとある。
握り拳に力を入れた。
「当たり前だ。ちょっと遅くなったけど、今、約束を果たそうと思う」
その言葉に、一瞬にして、栗色の瞳が、一際強く光り、口許に、笑みが浮かんだ。
今、目前に、ぱぁっと大輪の花が綻んだのではないかと思った。
こいつのこんな表情、見た事がなかった。外向きに作る笑顔は見ていたけれど、全く別物だった。まあ、こいつを喜ばせる言葉なんて、一度として発した事がなかったから、当たり前なんだろうけど。
しかし、なんて、可愛いんだ。
胸があり得ないくらい高鳴り、ただただ、見惚れてしまう。
「では、やっと、抱いてくださるのですね。漸く、殿の子種が頂ける」
本当に嬉しそうに、そう言うから、まるで、思いが通じ合ったかのような錯覚に陥るけど、すぐさま、思い直す。
この笑顔は、僕への思いに感極まってのものではない。
嫡男を産ませると言う約束が果たされる事への喜びを表しているだけのもの。
そもそも、僕が、どうして、こんな事を言い出したのか、こいつは、全然分かっていないって事。
まあ、告白にしては、随分と遠回しな表現であったかもしれない。後ろの方に、お前が好きだから、くらい付け足しといた方が良かっただろうか?
でも、今までのこいつとの関係を思うと、急にそんな言葉を口にするのは、かなり難しい。勇気がと言うより、不自然な気がする。無理に言って、嘘をついているような感じになるに決まってる。
けれど、こいつの方にも問題がある。僕の事なんて、微塵も気にかけた事がないから、僕の気持ちに気付かないんだ。
子種、子種、子種って、僕を子種の素としか見ていない、そんな女子に思いを寄せるなんて、僕の趣味はどうかしているに違いなかった。
「あんたにとったら、僕は、所詮、種馬にしか過ぎないんだろうけど」
こんな事言うべきじゃない。言ったところで、何も変わるわけないのに。口をついて出る。
でも、僕は、武士だ。どんな時だって、勇気を持って立ち向かうものだ。それだけじゃない。僕の、嘘偽りない思いを知って欲しかった。
「僕の思う少しでも良い。思いを返して欲しいんだ」
告げる勇気があったって、こいつを前にして、本当に馬鹿げた願いを口にしているなと思う。
こいつは、僕の子種が欲しいだけなのに。
それでも、この思いを自覚してしまった僕は、是が非でも、こいつの心が欲しかったから、退く事などできやしない。
僕の発言に驚いたのだろう。輝くような笑みを消し、栗色の大きな瞳を一層大きくして、こちらを見ている。
「なぜ、泣くのですか?」
え?
慌てて、目元に手を寄せる。確かに、そこは、湿っていた。ぞんざいに拭うけど、また溢れてくる。こうなると、自分自身の事なのに、もう僕にはそれを止める術はない。
感情が昂ると、いつもこうだ。子供みたいに、涙が出てくる。
情の深い子ねえ、なんて、小さい頃は泣く度に、微笑まし気に周りの大人達に言われてたけど、元服を済ませてしまえば、そんな暢気な言われ方はされない。とは言え、泣くだけではなく、喜怒哀楽、何がしかの感情を他者に見せると言うのは、決して悪手一辺倒と言うわけでもない。立場や状況に応じて、自分を有利に立たせるための演出として使えば、感情を見せる事は、並みな演説にも優ると、僕は考えている。つまり、心のまま、それを露わにして振る舞うなんてのは、下の下の武士がする事。
まあ、夫婦…いや、男女の駆け引きにおいても、僕にとっての武士たる者の常識が通用するかは、また別の話ではあるが。
一巡り考えてみるものの、何はともあれ、好いた女子を前にして、自分でも上手く説明できない感情でもって涙を流すのは、情けない、の言葉一つで足りると思う。
できれば、見なかった事にして欲しい。
「殿は何か思い違いをしています」
僕の思惑とは正反対な言葉が、静かに落ち着いた声に乗せられて響く。
思い違いとか、勘違いとか、今日はそんな話ばっかだなと思う。
「数多の殿方の中から、殿を選んだのは、他でもない私なのです」
「え?…お館様じゃ、なかったの?」
初耳なんですけど。かなり、寝耳に水な話なんですけど。
お館様に、何かの折りに、僕の何らかの何かが、見込まれたからこそではなかったのか。…少しがっかりする。
でも、それなら、この意味不明だった大抜擢の理由が分かる。
だって、こいつは、ここに来て以来一つの事しか、望んでいなかったから。
「はい、私が、お父様にお願いをしました。私の知る中で、殿が一番の殿方だと考えたからです」
「そんなの…それは、僕が、天下人の種を持つ男子だと思っわたからでしょ。あんたは、子種さえもらえれば、それで構わないんでしょ。僕が誰を思っていても、何をしていても、それこそ縁もゆかりもない荒れた戦場で骸を曝していたって、構わないんでしょ!」
「それは、殿の事を知らなかったのです。殿の人となりを知っていくうちに、身技体全てを兼ね備えていると感じました。私の選んだ殿こそ、やはり、理想の殿方だったのだと思ったのです」
どきりとあり得ないくらい心臓が跳ねる。
容姿ではなく、家柄でもなく、ただの男として見てくれる、それが、どうしようもなくひねくれた僕の心を熱くする。
トヨの言う通り、こいつは、本当の僕を見てくれているのだろうか。
「殿がどれほどの思いを持っているのか、分かりませんが、私も、殿をお慕いしています。それでは、足りないのでしょうか?」
え?何?今、何て言ったの?
お慕いしてるって言った?言ったよね?
お慕いしてるって、どう言う事?こいつが、僕を、お慕いしてるの?まさか、まさか!
あり得ないくらい、顔に熱が集中するのが分かる。
「ほんとに?」
信じられなかった。だって、あの妻が、僕を慕う?そんなの想像がつかない。
「殿こそ、トヨはいかがされたのですか?」
「トヨ?トヨはどうだっていいじゃない。それより、僕を…僕を思っていると言うのは、本当?」
「夫たる殿に偽りなど言いません」
「ちゃんと、言って!」
自分でも呆れるくらい、駄々をこねる子供みたいだった。
妻は、驚いたように瞳を大きくしたけれど、すぐに笑みに変わる。
ねえ、なんでそんな落ち着いていられるの?
「殿が好きです」
ゆっくりと伝えられる言葉が、急速に僕の身体中に広がっていく。
好き、なんて言葉は、色んな女子から、たくさん聞いてきたはずなのに、今まで聞いたどんな言葉より甘美だった。
また、涙が頬を伝う。それを妻の細い指が掬う。
「まだ足りませんか?」
「うん、足らない。もっと言って」
ぐっと抱き寄せると、甘い香りがした。
好きです、耳元で、そう囁やかれる。
ああ、なんて甘い響きなんだろう。ずっとこの言葉に浸っていたい。
「私ばかり言わせて、殿はズルいです。私も聞きたいわ」
肩口に頬を寄せて、妻はくつくつと笑う。僕の涙は、止まりそうにないのに、何がそんなに笑えるの?
「僕も、お前が好きだ。どうしようもないくらい、好きなんだ」
涙混じりの告白は、気恥ずかしかったが、もうどうしようもない。
「それは、今の今まで、知りませんでした」
嬉しそうに笑って、あやすように、妻が、とんとんと僕の背中を摩ってくれる。いつも通り、どこまでも落ち着き払った豪胆な妻だ。男に抱き締められていると言うのに、どうしてそんな余裕でいられるの?てか、普通、逆じゃない?包容力があるのは、格好良い妻ではなく、夫ではないだろうか、と思わないでもなかったけど、そんな常識人な僕はここには居合わせていなかったから、ただただ気持ち良さに浸った。
また一筋、涙が頬を伝っていく。
温かくて、甘い香りは、乳母や母さんのようではあったけれど、全然違って感じられた。心が、体が、沸き立つような、戦場にいるような、馬で早駆けしたいのに、似てる気がする…いや、それよりもっと何も考えられなくなる感じ。でも、酒に酔うような、陽気なのじゃなくて…多分、つまり、これは、これ独自の感覚で、他のものには例えられないものなんだろうな。男としてもって生まれたものなんだろう。僕だって、それなりに大人だから、女子を知らないからと言って、その手の事について全く考えた事がないわけではない。
でも、こんなにも、衝動に駆られるのは、初めてだった。今の僕には、今まで僕の欲を押し止めていたものなんて、欠片もなかった。
初めて、本当に、心の底から、女子を…いや、こいつを抱きたいと思った。

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