戦国の花嫁■■■天下人の種後日譚04■


「故に其の疾き事風の如く、其の徐かなる事林の如く」
耳馴染んだ文章と耳慣れた声に、足を止めた。
かの有名なる兵法書の一文である。武士たるものは、諳じているべき書である。最近は、書を離れ、武にばかり精を出す輩が増えている、と嘆く恩師の姿が思い出される。
まあ、今、そんな事はどうでも良い。
「何をしてるの?」
僕の言葉に、声をかけた相手は、振り返る。
振り返ったのは、この屋敷に仕える武士、ではなく、もちろん、僕の妻だ。言うまでもない事かもしれないけれど。
「坊やに読み聴かせをしているのです」
何を言わせるのか、見ればわかるじゃないか、と言う妻の表情に、思わず、バカな質問を口にしただろうか?と考える。
いやいや、そんなことはない。至って普通な、至極当たり前に思う疑問だ。
「まだ気が早いんじゃないかな?」
「いいえ、こんなにも膨らんできているのよ。最近では、私の声に反応して、腹を蹴るし、きっと言葉が分かるようになったと思うの」
そう言って、愛おしそうに、その、大分目立つようになってきた大きな腹を撫でる。確かに、大きくなったらしい腹の子は、僕が触っても、元気に蹴り返してくれる。健やかに育っているのだと思えて、嬉しかった。

だがしかし、だがしかし、だ。
歯も生え揃わないとか、そんな次元でさえない、まだ生まれてもいない胎児が、言葉を理解するわけないじゃないか。しかも、漢籍。五つの子だって、苦戦するよ。
そう思うのだけれど、声にならない。
妊婦を刺激してはいけない。だから、口にしないだけだ。決して、怖いわけではない。
「そ…う、かな?」
「ええ。坊やも、分かるのか、とても静かに聞いてくれるの」
ちなみに、妻が言う、坊や、と言う単語に、僕は、もう一々反応しなくなっている。聞き返したところで、返ってくるのは、あの、何を分かりきったことを聞くのだ、って表情だから。
妻の腹の子は、男子。しかも、天下人だそうなのだ。
孕んだのが分かって早々、顔を見てもいないのに、自信満々に、そう言われては、継げる言葉もなかった。いや、孕む前から、声を大にして言っていたような気もしないでもないが。
しかし、最近では、やはり、母親と言うのは、ただ見ているだけの父親とは違い、自らの内に宿しているのだから、自然、子の事が分かるようになるのかもしれない、なんて思い始める始末。
先だっては、思わず、坊や、と口にしてしまった自分がいて、なんとも情けなかった。
父さんまで、ごめんよ。
元気に生まれてきさえすれば、男だろうと、女だろうと、それでいいから。そりゃ、跡取りは欲しいけど、可愛い娘だって欲しいから。妻に似た綺麗な栗色の瞳をした、桃色のぷっくりとした頬を持つ娘に、父さまと呼ばれてみたい。
「それにしても、早くないかな?」
悪足掻きにもならないだろうけど、まだ、男と決まった訳ではないよね?と言外に含めてみる。
「何事も、始めるのに、早いと言う事はないわ。それに、覚える事は山のようにあるのだし。少しでも、力にならなくては」
大変残念な事に、予想に違わぬ、力の籠った声で返される。
あ、そうだね。うん、言葉に出さなきゃ、通じないよね。悪いのは、僕だよね。
「けれど、私、思うの。文章の意味をよく理解しない私が、読み聴かせをしても、坊やは、分からないんじゃないかって」
「え?」
「だから、私、考えたのだけれど、お義父さまにお願いして、都一の高名な学士さまをお呼びしてはどうかしら」
待て、待て、待て。待って、何を言い出すの?
意味の分からない言葉は、褥で、甘く酔いしれて、啼くように言うだけで、十分だから!僕を困らすのは、床の中だけでいいから!
「ねえ、そうしましょうか?」
形の良い唇をにっこりと微笑ませ、目を輝かして言われると、無条件に頷きそうになる。ねえ、僕の事、チョロいって思ってるでしょ?
そうだよ、自分でも分かってる。
屋敷の誰もが、笑みを隠せないくらい、僕は妻に首ったけなのだから。微笑み一つ見せられるだけで、なんでも叶えてやりたくなる。
竹取りの翁の物語に出てくる、姫に群がる求婚者の気分だ。
ねえ、僕たち、本当に夫婦だよね?無理難題を言って、僕を遠ざけようとなんてしてないよね?
「いや…えと、それはどうかな」
「あら、どうして?良い考えだと思うけれど」
生まれてもない胎児に、学問の先生を付けたいんです、なんて、父上に言うつもりなのか。
頭のおかしい嫁だと思われたら、どうすんのさ。
今をときめくお館様の五の姫であり、外面だけは最上級の妻は、押しも押されもせぬ、我が家自慢の嫁なんだから。両親の夢を無下に壊したくはなかった。
お前の一途さに踊らされるのは、僕だけで十分なんだよ。
ああ、そうだよ、全て、僕が叶えてあげるよ。
お前にいっぱいの愛情を捧げるのは、僕だけ。
お前にたっぷりの子種を注ぐのは、僕だけ。
お前の微笑みを見るのは、僕だけ。
お前は、僕だけの女。
つまりは、そこに行き着くんだ。

その日から、妻の午睡の一時に、子守唄代わりに、僕が、兵法書を紐解くことになったのは、言うまでもないことかもしれない。

■FIN >後日譚05■■■

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