戦国の花嫁■■■無声の慟哭18■


「へえ、こんな本を勉強してるの?」
こんな本、と言ってみたけれど、見た事のない書名。しかも、漢字だけの文字列。まあ、男子の読むべき本の名など、知る必要もないのだから、仕方ないか。案の定、中も漢字がびっしり並んでる。
うっわぁ、これは、人の理解できる文字なのかな?
「うん。この本、すっごく長いんだよ。今は、巻の三十二に漸く入ったところ」
「三十二?すごい巻数だね」
「父上はね、この本なんて、僕の歳にはとっくの昔に読み終わってたんだって、恩地のおっちゃんが言ってた。だから、僕も、父上に少しでも追い付けるように、頑張ってるんだ」
「そっか、頑張って。若竹なら、すぐに追い付いちゃうよ」
「そんな無理だよ。絶対に追い付けない!だって、父上はすっごいんだもん」
応援したつもりだったけど、怒られる。父上と比べて、出来が悪いって落ち込んだりしても、若竹は、両親を憧れと共に、とても大事思っているのだと、つくづく感じさせられる。
「そうだね、父上はすごい方だと思うよ」
「お姫様も、そう思うの?」
「当たり前だよ。キビで一番の軍才と言えば、父上なんだから」
「本当?それって、すっごいね」
きらきらの瞳で見つめられる。可愛いなぁ。そんな事言おうものなら、さっきみたいに怒られるんだろうけど。どうしたって微笑まずにはいられない。でれでれの笑顔を向けると、若竹は目を瞬かせて、驚く。
「お姫様って、明るく笑うのね」
「ん?そうかな?」
「うん、お日様みたい。眩しいよ」
そこまで言って、急に若竹の顔が暗くなる。
きっと奥方様の事を思い出したんだろう。
「どうしたの、母上の事?」
「うん…母上はね、ふんわりと笑うの。たんぽぽの綿毛みたいだった」
「そう、じゃあ、優しい方だったんだろうね」
「いつも笑ってたよ。どんなに熱があっても、僕を見つけると笑うの。大丈夫だよって。だから、僕のせいで、母上は無理してたんじゃないかなって、ずっと思ってたけど、聞けなかった」
「無理なんかじゃない。若竹を見ると、元気をもらえたから、笑顔を見せてくれてたんだよ」
「そうなのかな?」
さっきからうるうるの瞳が、さらに潤む。子供なんだから、大人ぶった配慮なんてしなくていいのに、こんなに気を遣う子見た事がない。庇護すべき母親の体の弱さがそうさせたのだとしたら、なんとも憐憫を誘う話だ。
「少なくとも、私はそうだよ。私の笑顔が明るいのは、若竹がいるからなんだから」
父親譲りの飴色の瞳が、驚いたように瞬くと、溢れ出さんばかりだった涙が頬へと流れていったから、懐紙を取り出して、柔らかな頬に当てる。
「私でさえそうなんだから、本当のお母さんなら、もっともっと笑顔になれたはずだよ」
にこりと微笑んでやると、若竹は顔をくしゃっとさせて、一つしゃくり上げる。もう一度、しゃくり上げると、私の胸に飛び込んでくる。最近は、私が腕を広げなくても、こうして抱きついてくれるようになった。それが、信頼の証のように思えて、胸がきゅんとなるから、その甘い匂いを抱き締め返す。
母上って、何度も何度も、悲し気な声が震える。
そう言えば、私、母さまを恋しく思った事って、あったかな?萩原の菩提寺から決して出る事なく、念仏を唱え続けるばかりだと言う母さま。あの日から、一度もお会いしてはいないけれど、こんな風に、母さまと呟きなから、涙した記憶はなかった。でも、龍丸との思い出を振り返る時、萩原の温かな家族を思い浮かべない事はなかったから、当然母さまの事だって、父さまの事も思い出しはしたけれど、会いたいと、どうして会えなくなってしまったのかと思うのは、龍丸、ただ一人だった。父さまは、武士だったから、あのような最期であったのも、また武士の生き様と言えるかもしれなかったから、いつか喪うかもしれないと言う覚悟が、幼いながらに私の中にあったのかもしれない。けれど、龍丸はまだ元服すらしていなかったのだ。まだ武士どころか、何者ですらなかったのに。家臣の誰一人として守る者のいなかった龍丸に、その後何ができると思ったと言うか。

普段は蓋をしてる癒えない悲しみがあっと言う間に溢れ出す。
「お姫様も、悲しいの?」
小さな手が私の頬に当てられる。隆綱殿とは違い、無垢の指は、柔らかい。
「それとも、僕があんまりにも泣くから?」
「ううん。ただね、若竹の気持ちになって泣いたら、その涙は、若竹のものになって、若竹の中の悲しさや寂しさが少なくなるかなって」
あまりにも心配そうな表情に、私の悲しい思い出なんてさらさら話すつもりなんてないけれど、なにか理由をつけて安心させてあげたくなったから、強ち嘘とも言えない事を言ってみる。
「お姫様の涙は、僕のもの、なの?」
「そうなったら、良いなって。そしたら、若竹は一人じゃないでしょ?」
「悲しいのは、僕だけでいいよ。お姫様まで泣いたら、僕、悲しいもん。…一緒にいてくれるもん、一人だなんて思わないよ」
だから、そんな風に泣かないで、と両手で涙を拭ってくれる。自分だって、まだ涙で濡れているのに、そんな事お構いなしに、私を心配そうに見る。本当に優しい子。
「ありがと」

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