戦国の花嫁■■■無声の慟哭26■


「それは、その…どういう事でしょうか?隆綱殿は、何か…大きな企みをしてるって事ですか?」
突如、私と兵衛殿との間に、何とも言えない妙な間が訪れる。
意味深な顔をしたまま、兵衛殿はしばらく私を見た。
隆綱殿が、大谷に不義をするって事?とても想像できない事だけれど、私の知っている事など表面的なものだけだから…叔父上は、それをご存じで私をここへ遣わしたんだろうか?
一気に乾いた喉を、ごくりと鳴らした。途端、兵衛殿が表情を崩す。
「ほっほっ。主家のご養女を利用するなんぞ、あの鼻垂れにゃ、選択肢にすら上がらんよ。それくらいの忠義だで、ご安心されよ」
「え?…あ、そうですよね…失言でした」
試されたのだろうか?それにしても、ちょっとひどい気がするけれど、私もむやみに警戒しすぎてたと恥じ入る。
「いやいや、白河に来たばかりの姫が、あれこれと戸惑ったり、思案されるのは、当然の事。溜め込まず、何でも口にされたがよろしい」
隆綱殿以上の包み込んでくれそうな様子に、ほっとする。
あんなに怖そうだと感じた兵衛殿だと言うのに…。人は見た目に寄らないもんだなと思う。まぁ、私への接し方は、他の人へのものとは一線を画するものだからこそなんだろうけどね。
だって、第一印象と全然違うのだもの。

「あの、兵衛殿」
「なんですかの?」
「隆綱殿は、本当に、えと、ハナの止まらない稚児だったんですか?」
もはや、隆綱殿の代名詞ともなってる、鼻垂れ。その真相が知りたくて、知りたくて、我慢できずに聞いてしまった。
「その事ですか。どうじゃろの…いわゆる、鼻垂れほどでもなかったんじゃが。始末が悪いもんだで、鼻垂れの印象になってしまった、と言うところじゃろうか」
「始末?」
「あの通り、モノに頓着せんから、垂れたハナを、手近にある手習いした紙でかむもんで、鼻の周りが墨の色になっての。それこそ、元服するまで直らなんだわ」
とんでもない事を言われてるのに、兵衛殿言われたそのまま想像できてしまうから、逆に恐ろしい。
しかも、稚児の隆綱殿の姿が、若竹そのものだったりして…ごめんね、若竹。
「それは、何と言うか…すごいですね」
「その名残で、今でも熱中すると、袖口で拭きよるから、洗濯する女中も困っておって…。この前も、大谷への出仕用にと誂えた衣装を汚しおっての。あの時ばかりは、女中らも苦言を呈したが、懲りるわきゃないからの。姫も注意して見とってくださるか?」
えと、つまり、現場に居合わせる、または、証拠を見つけたら、指摘をしろって事?
隆綱殿を、私が、注意するの?
えー、ちょっと想像できないな。心の中でブツクサ言ってたとしても、さすがに口には出せないよ。
「姫に言われたら、あの鼻垂れも、聞く耳を持つやも知れん」
「まさか。私なんかの言葉じゃ、無理ですよ。だって、隆綱殿は、殿方だし、夫に当たる方だし、すごく歳上の方ですもの」
「助言を聞き入れるのに、男だとか、歳だとかなんてものは、関係ないものですわい」
「そうでしょうか?いや、でも、三従って、庭訓によくあるじゃないですか」
「ほっほっ。三従とな!白河で、三従…ほっほっ」
え?!…なんで、笑われてるの?勘違いしてる?それとも、三従って言わないのかな?
「兵衛殿。三従って、その、嫁しては夫に従いってやつですよ?」
「えぇえぇ、存じておりますとも。いや、あまりにも聞き馴染みのない言葉じゃて…お、決して、姫を笑ってるわけではござらんよ」
「白河では使ってないって事は、他の庭訓があるんですか?」
「そうじゃの。あえて言うとすれば、何人も白河の理に従えと言ったところかの」
「え?」
「どのような生まれだろうと、白河に住めば白河のもの。白河のために生きるものだと…先々代がよく口にされとったわ」
「隆綱殿のお祖父様が?」
「えぇ。先々代は、もと、名字を持たぬ商人で、この白河の地を貰い受けた縁により、白河と名乗ったんじゃ」
「はい。ただ、セトの修理亮と名乗られていたとか」
「よくご存じで」
「あ、えと…有名でしたから」
大谷では、事ある毎に、隆綱殿を貶める表現として、そのお祖父様の話が引き合いに出されていたからこそ、お祖父様の事を知っていたので、兵衛殿の誇らしそうな表情に、後ろめたい気持ちになる。土地を名乗れるのは、治める土地のある武士である証。いくら財があろうとも、商人はそれを許されない。だから時に、武士は、商いで得られる豊かさを妬んで、彼らを地無しと蔑むのだ。
「わしの一族は、白河の在地武士での。二十三の歳に突然やって来た商人上がりの主に、当然反発して食って掛かったら、そう言われたんじゃ」
「白河のために生きる?」
「そう。初めは、そんな事、口先ばかりの商人のおべんちゃらだと思ってたんが…実際、先々代は、連れてきた手下とわしら在地のもの達とを区別する事なく、白河を治めた。ここは、大谷の西の端。治安もいいとは言えなかったし、何かと荒れくれたものも多くて、揉め事も日常茶飯事。だと言うのに、見る間に、白河は平穏な土地になったもんじゃから、わしは素直に無礼の許しを得た」
「そうだったんですか。すごく立派な方…」
「色々なものの下で働いてきたが、先々代は群を抜いとるよ」
「そんな方がお祖父様にいらっしゃれば、隆綱殿が、私をあっという間にその気にさせちゃうのも、頷けます」
「似たんは、そこくらいのもんじゃがの。だからこそ、姫のようなしっかりとした花嫁が来て、少しばかり安心しとるとこですわ」
あ…そうか。私、お嫁に来たんだった。言われてみれば、大谷と白河を結びつけて、叔父上に安心していただくのも大事だけど、そうすると自然、白河の人に評価されるって事でもあるんだ。
「それは、兵衛殿。さっきも言いましたけど、私なんかじゃ、ただ楯突くだけにしかなりませんてば」
「どうじゃろうの。…姫にお会いして、この年寄りは嬉しく思ったんですわい。あの鼻垂れは、本当に人の運がいいとな」
「そんな…」
「どんなに人を動かす力量があれども、人に恵まれねば、歯痒いだけ。鼻垂れは、人心を掴む以上に、良い人に巡り会う運を持ち合わせておる。…前のお方の時もそうじゃ、塞翁が馬、坊のような健やかな男子を授けてくれた」
兵衛殿の瞳が、ふっと遠くを見る。それだけで、奥方様が、白河のひとにどのように思われていたのか分かる。それが、すごく羨ましく思えてしまうのは、私がそんな存在になれる気が全然しないから。
「実を言いますとな、一番に片付けをし出した姫に、わしら一同驚きつつも、笑っておったんじゃ」
思い出し笑いのように、さらに表情を緩めた兵衛殿に、またしても、それはどういう意味だろうかと眉をしかめた。
頓珍漢な事して、と嘲笑したとも取れる言葉だけれど、それにしてはあまりにもおかしそう。困惑を露わにした私を見て、ふぉふぉっとお得意の笑い声を上げる。
「私、そんなに変な事したでしょうか?!」
「しとらんよ。ただのぅ、あまりにも前のお方にカブるもので」
「え、奥方様と?」
「まぁ、あの方は、一年以上経っての事じゃったがの。それまで何一つ言わず、頷くばかりだった方が、ある日徐ろに、鼻垂れの膝頭に向けて、数冊の書を差し出したんじゃ」
「まさか、掃除の本ですか?」
「荘子?そんなもん差し出したら、飛び付いて、本にかじりついて、話なぞ聞かんわい」
「あ、いや、そうし、じゃなくて、掃除です。片付ける…」
「あぁ、掃除の。失礼した。如何せん、鼻垂れは、荘子に目がなくての…。なるほど、掃除と荘子か。仮名に開けば同じだと言うに、片方にしか興味を示さんとは、全く不思議なもんじゃい」
「えぇ。私も、そう思います」
荘子と掃除。聞き違いをした経緯は違えども、根本的な理由は、そんなに変わらない気がするので、ほっとする。隆綱殿に対する私の認識は、そんなに偏ってないらしかった。ついそう疑ぐってしまうのは、隆綱殿が偏りすぎてるからこそのものと言う事。
だからと言って、内心、失言を吐いていい理由にはならないと言うのを忘れてはいけない。
「荘子掃除に限らず、鼻垂れは、文字の書かれたものならなんでも読む人間じゃから、何についてのものかなど聞かず、手に取った。そこに書かれとったのは、嫁いできた日から、気になった片付かない場所と善後策、加えて、鼻垂れの質を踏まえての今後の対処法。さらには、鼻垂れがどうして片付けられないのかについて、延々と熟考する、何とも膨大な逸書」
「つまり…それ、奥方様の書かれたものだったんですか?」
「初めは、珍しさと驚きと共に筆を取ったんが、自分の居室にも魔の手が忍び込んで初めて、その邪悪さを知って、読んでもらわんと思ったんじゃと」
うそー!そんなものまでもらっても、あれ、なの?と思った思考は、兵衛殿に筒抜けだったようだ。
「前のお方は、論理武装は完璧じゃったが、行動力に欠けとったからの。さらに悪い事に、あれを理解して、実践できるものは、残念ながら白河にはおらんでの」
「そんなすごいものだったんですか?兵衛殿でも難しかったのですか?」
「どうじゃろの」
「え?読んだんじゃないんですか?」
「わしゃ、実務向きじゃで、堅苦しいもんは読まんのよ」
ちょっと憮然とする兵衛殿の言葉で、若竹の言葉を思い出す。
兵衛殿は、実務向きで、漢文が読めない。
じゃぁ、奥方様の書かれたものは、漢文って事になる…?
「あれ?でも、内容を知ってたじゃないですか」
「書き下したもんも作ってくださったんじゃ。しかし、如何せん要約に留まっておっての、深く知ろうとすれば、原文を読まんといかん。そう言う訳じゃな」
「でも、なんでまた、そんな難しい文章で?」
「それは、姫と同じよ」
「え?私、漢文なんて、読めさえしませんよ?」
「いやいや。姫と同じようにな、三従を口にしたんじゃよ。思えば、そこもよく似とるの」
「嫁しては、夫に従え…?そんなの、武家の娘なら誰でも教え込まれてる事ですよ?と言うか、漢文で書く事と何の関係が?」
「言ったろう?その本を白河の誰一人として実践できるものはいないと。それは、皆が皆、鼻垂れと同類だからではない。わしかて、そうじゃ」
「あ…読めない」
「文字など、読めねばただの落書きと変わらん。そこに、主人への悪態を罵詈雑言と書き連ねておったとしてもな」
「そうは言っても、隆綱殿は読めますよね?一番見られちゃいけない人じゃないですか?」
「そこはそれ、重度の活字中毒ではあれど、よもや、嫁いできた女子のものを興味半分で読むほど悪趣味ではないと判断したんじゃろ」
なんとまぁ、高尚な駆け引きなのかしら。漢文が自由に綴れて、その利点をちゃんと理解してて、それで書いちゃうなんて。奥方様、すごっっ!
それに引き換え、私はどうなのよ?
片付いてないなぁ。よし、片っ端からやってしまおう…だったよね?思い立ったが吉日、と言えば聞こえがいいが、ただの思い付きの考えなしとも言える。むしろ、そっちだ。そもそもきっかけが、屋敷を見渡し、この有り様で、自分が女主人と思われるのが嫌だっただけと言う、ただの虚栄心の固まり。
えー、比較もしたくないな。いや、兵衛殿、さっき、私の行動が奥方様とカブるって言わなかった?カブるって思うって事は、比べられて…?
「兵衛殿…」
「急にどうされた?困ったような眉をされとるぞ」
「だって、何がカブるって言うんですか?奥方様から見たら、私なんて猪武者ですよ」
「わしからすれば、前のお方は智将。姫は猛将よの。それぞれ、甲乙つけがたいものがある」
「えー、いや、それはどう…ちょっと目が曇ってませんか?」
「姫。あの鼻垂れに果敢に挑んだ女子は、お二人だけ。大抵のものは、諦めて口を閉ざすし、何もせんよ」
「それは、仕える主人相手ですもの。畏れ多くて、何もできないのが普通ですよ」
「そりゃそうじゃな。ですがの、姫。姫は、そんな事を口にしながらも、実際、三従を越えてしもうとるんではないですかの?夫と仕えるべき主人…重要度は、それほど大差ないように思われるが」
ぐうの音も出ないような事実を突き付けられる。
あれ、奥方様に比肩して褒められてると思ってたのに、なんで、こんな風に論破されて、窮地に追いやられてるんだろ?
「ホントのところ、つまり、やめさせたいって話ですか?」
「うん?」
「女子は、三従を守るべきだと、そう言う事ですか?」
「一体、なんの話かの?」
「兵衛殿の仰りようは、まるで、夫に当たる隆綱殿に文句をつけて、家中ひっくり返して回ったりしてる私の事、本当は分不相応だと…そう言ってるように聞こえます」
「それは、勘違いじゃて」
「勘違いって、どう言う事ですか?どう聞いても、三従さえ知らない小娘めっ!って聞こえます」
「三従を知ってなお、己の本分を忘れぬ強き乙女と褒めとるつもりだったんですがの…これはしたり、話が弾んで、姫がまだうら若い娘さんと言うのを忘れて、少し強い物言いをしてしまったかの?」
「…えと、じゃあ、私、何に見えてたんでしょうか?」
そう言った途端、兵衛殿が、シワの寄ったまぶたをもったもったと瞬かせた。考えるように、またあご髭をくるりと回す。
「姫は、姫。わしとても、武家にその身を置いておるからには、老いぼれておっても、上下秩序を忘れてはおらんよ。…まぁ、わしが言いたかったのはの、姫はそのまま思うように鼻垂れを支えてやっていただきたい、そう言う事よ」
「誤魔化そうとしてません?」
「いんや、しとらんよ。わしに限らず、白河のもんは皆、姫を姫と思うておりますよ」
明らかに誤魔化し通す気満々の兵衛殿ではあったけれど、言われた言葉が私の心に影を差す。
姫。
それは、いつか、若竹に謝った事。
私が姫であれた家はもうない。だから、私は、本当はもう姫なんかじゃない。ただ突然、その名を与えられただけ。そして、その責を私はまだ何一つとして果たせてない。隆綱殿が何も言わないでいてくれるから、ここにいられてるのに…。昼の隆綱殿があまりにも普通だから、私は図に乗ってた。
「隆綱殿も、迷惑だと思ってますよね」
「わしも、鼻垂れも、白河のもん誰一人として、迷惑じゃと思うとりませんよ。姫は、まだお若い。お相手が年相応であれば、そう背伸びされる事もなかったんじゃろうな。でもの…そう気負わずとも、健やかでおられれば、その内すべていいようにいきますわい」
「それ、隆綱殿と同じ台詞です。私、そんなにシャチホコ張って見えますか?」
「見ようによっては、そうとも言えるかの」
「…反省します」
「じゃから、そのままでいいと言うとるが」
「ですけど」
「姫は、白河の女主。鼻垂れ…いや、隆綱殿の言うようにしとればいいのです。それは、それ、嫁しては夫に従え、と言う三従のもう一つの捉え方よの」
「もう一つの捉え方?」
「嫁しては夫に従えとは、逆手にとれば、従うべきは夫。他のもんの言う事を聞く義理はないともとれる。だから、わしの言う事など聞き流してくださればいい」
「それは、ちょっと曲解じゃないですか?」
「いやいや。言っとって、本当にそうである気がしてきましたわい。女子はとかく優しい生き物じゃで、憐れみのあまり迷い多くして儚くならんように、従うと言い換えて、信ずべきもんを一つと戒めさせとるのかもしれん」
「信ずべき、一つ」
「えぇえぇ。それが、姫にとっては、奇しくも鼻垂れよ」
「でも、隆綱殿は、一般の三従を越えるような事をしてても、戒めとなるような事を何も言ってくれないような…」
「人らしい感覚はめっぽう鈍い、あの図太い鼻垂れをして、言わしめるほどの事とは、一体何じゃろの」
「それじゃ…従おうにも、従えないじゃないですか」
「あれも、アホではないから、何も好き放題の野放しにはせんさ。鼻垂れも人の子、好き嫌いくらいある。きっと分かるようになるさ」
「きっと、じゃ、心許ないですよ」
ますます混乱するはかりで、思わず、情けない声が出てしまう。
でも、兵衛殿は、ふぉっふぉっ、まだお若いんですから、いっぱい悩んだがよろしい、とそう言って、腰をあげた。
兵衛殿は、白河の重鎮。私の相談役ではない。もう十分と言っていいくらい話を聞いてもらった手前、これ以上引き留めるわけにもいかないが、でも、ちょっと恨みがましく見てしまう。それを見た兵衛殿は、また、ほっほっと笑う。
「わしゃ、この通り、茶々を入れるだけで、昔から聞き役には向かんのよ。でも、またこの年寄りの話し相手になってくださると嬉しいが」
「…機会があれば、是非」
「そう、ふて腐れんでも。大丈夫じゃて。そんな風に意欲的に、少しずつでも、色々あやつの事を知っていけば、その意図を汲めるようになれるさ」
「あ…」
兵衛殿の言葉に、ある一つの仮説が浮かぶ。
言葉を交わした事はあったけれど、大した知り合いでもない隆綱殿と私。生まれも境遇も違う、歳だって離れてて、ごく平凡な私と、読書家で軍略家で鬼神な隆綱殿とは、これと言った共通の話題が、今のところないのだ。
だからこそ、何でもいい、次の約束が必要だったのかもしれない。
「どうされた?」
「いや、えと…なんでのせられたのか、ちょっと思い当たって。きっと私のためなんだろうと思います」
さようか、それはよかったですな、そう言って笑う兵衛殿に、私も笑みを向けた。

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