戦国の花嫁■■■無声の慟哭32■


思いがけない展開に戸惑ったのは、ほんのちょっとで、せっかくなのだから、蕩けそうなくらい柔らかい隆綱殿の微笑みを堪能しておく事に決めると、恥じらいも何もなく、視線をがっつりと隆綱殿に固定した。

こうして、まじまじと見るのは、初めてかもしれない。飴色の瞳は、やっぱ若竹と同じ。でも、なんて言うんだろう、同じ色なはずなのに、醸された奥深さを感じる。それは、隆綱殿の過ごしてきた年月の波瀾さを封じ込めて、映し出しているのかもしれないと思った。
少し太めの眉は、武将らしく荒々しいのに、それでも理智的に感じられるのは、すっとのびた鼻筋を持つ形の良い鼻のお陰なんだろう。ところどころ見られるシワさえも、老獪…は言いすぎか、頼れるおじさま的な魅力を倍増させてる気がする。

なんて素敵な方なんだろう。
心から、そう思った。
私ったら、意外に、歳上好きだったのね。断然、子供好きだと思ってたんだけど…と、自分の新たな一面を知る。

ずっと見てたい。ううん、見つめられてたい。
そんな風に思ったのに、ふいに、隆綱殿の視線が、反らされてしまう。そうして、困ったように浮かんだ笑みに、不躾過ぎたと悟る。…今更ながらだけど。
でも、もう少しだけでいい。私を見てくれたなら。
うっとりしたままの私は、まだ夢から覚めきらないように、自分の感情をまっすぐに感じる事ができた。でも、それは、贅沢すぎる願いだし、その先にあるのは、決して通じる事のない思いなのだ。
だと言うのに、今は、片想いのそんな切なさよりも、視線を交わした一時の高揚感に満たされていた。

ここで、視線を泳がせていた隆綱殿が、何かに思い至ったように、そう言えば…、と呟いた。
あぁ、残念。本当におしまいなのだと、心の中で嘆息して、どうしましたか?と返した。
「姫に声をかけたのは、たまたま書庫を通りかかったからではなく、訴訟処理に必要な書類を探しに来たからだったんですよ」
「そうだったんですか。あれ…でも、その日使うものは、朝方に大体揃えてもらうのでしたよね?モレがあったんですか?」
書庫は、隆綱殿仕様ではなく、一般人向けになっているので、仕事をある程度理解していれば、この膨大な資料の山を取り扱えるようになるらしく、隆綱殿は自分で書庫に入る事は少なく(なんでも、一人で入ると、関係のない本に手を延ばして、半日出てこないのがザラらしい。…活字中毒って、恐ろしい)、その日使う資料の一覧を官吏の誰かに渡して持って来てもらうようになっていると聞いていたから、首を傾げた。
「いえ、今日使う予定がなかったものなんですよ。もう数日したら取りかかろうと思ってた案件だったんですけど、折り悪く、当人同士が鉢合わせてしまって、一触即発らしくて、それに人手が割かれて、頼もうにも…、と言った具合で」
「え?それ、いつの話ですか?」
「いつ、と言うより、現在進行形ですね。双方、暇をみて出向するようにとは伝えてあったんですけどね…、何も揃って来なくても。顔も見たくない、声さえも聞きたくないとか言っていたのは、方便だったんですかね」
「それ、隆綱殿、急用!火急の事ですよ!なんで、そんな他人事みたいな」
「うん?まぁ、領内の事だから、全くの他人事ってわけでもないですが、私にとったら、どっちが所有してようと、税さえ納めてくれたら、それで構いませんからね」
「そんな難しい屁理屈はいいですから!さっさと探して、止めに行ってください」
今すぐ動いてと、隆綱殿の腕をむんずと掴み促すけれど、当然それで動くわけもなく、しかも、隆綱殿は、何を思ったのか、あははと笑い出す始末。
「どうして、笑うんですか?それより、早くしないと」
「分かってます…分かってますけど、ふっ、あはは」
「隆綱殿!」
「しかし、姫があまりにも面白い事を言うから。若い娘さんにしたら、私の統治観は、ただの難しい屁理屈になってしまうんだなと思ったら、笑えてきて…」
そう言われて、自分の発言が、いかに礼を失したものだったのか気付かされる。明らかに、今回は、三従を越えていた。
と言う事は、つまり、初めてのお咎めらしいお咎めを受けるべきか。
掴んでいた腕から手を離すと、跪き、頭を下げた。
「申し訳ありません。身をわきまえぬ発言でした。お許しくださいませ」
突然の私の行動に、笑っていた隆綱殿も慌てる。
「姫、そのような事をされずとも。頭をお挙げください」
「いいえ。私は、隆綱殿の妻なのです。妻として、本当にしてはならぬ事は、してはならぬとお叱りください」
「それは、そうかもしれませんが…、板間に座られるなど、殿がお知りになったら、悲しまれます」
「父上を思われるなら、なおさらです。養女の私が、殿方のする事に口を出すのを厭われるでしょう」
困ったように、隆綱殿が、私の両肩に置いた手の力を抜く。
叱られるはずが、困らせてる…?やっぱり、大谷の養女は、叱れない?主家の養女を政治に利用する気など更々ないと言う、兵衛殿の言葉を思い出して、ますます、悪い事を言い出したような気になる。
そんな風に、頭が冷えてくると、そう言えば、今、隆綱殿は私にかまけてる時間などなかったのだと思い出す。
でも、下げてしまった頭を許可なく上げる気にはならない。
「…分かりました。とりあえず、一山片付けてくるので、そしたら、大谷の事を抜きにして、夫婦や三従に対する、私の考えを聞いてくださいますか?」
「はい、お待ち致しております」
それでも、頭を下げたままの私に、隆綱殿はため息を吐く。
「姫、私に叱責する気はありません。ですから、私の仕事が片付くまで、ご自分の事をなさっていてください。片付けの途中なのではないですか?」
いいえ、叱責如何に関わらず、反省の意味を込め、ここで待ちます。
と言いたいところだけれど、隆綱殿をこれ以上困らせたくないし、引き留めるわけにもいかない。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「おそらく、夜には片が付くと思いますから、寝屋で待っていてください」

そう言い置いて、書庫の奥に進んで行く隆綱殿の背を、私は複雑な表情で見つめ続けた。

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