戦国の花嫁■■■無声の慟哭50■


もうこれを逃したら、隆綱殿は私を抱いてはくれないかもしれない。
そんな根拠のない焦燥感に襲われて、溺れる人のように、ただただしがみつくしかない。放してはいけない、放せば終わり。その終わりが一体何なのかさえうまく説明はできないのだけれど、生まれてから漠然と意識下に感じてきた不安や孤独感が、自分が考えていた以上の圧力を持って、今の私に予想外の力を与えているような気がした。隆綱殿しか見えない、隆綱殿との未来しか描けない。それ以外は、ただ絶望が待ち受けているのだとしか思えない。
だから、どう考えても、腕に込めた力を抜く事はできそうになかった。

しばらくして、その背に、そっと隆綱殿の腕が回される。
「ですが、そうは言っても、また姫を怖がらせてしまいそうで…」
え…?
「さっきからもう、箍が外れっぱなしで」
え…??
「つまりは、優しくする自信があまりないんですが、姫は、それでも大丈夫だと言えますか?」
え…???
隆綱殿の繰り出す言葉に、思わず力が抜ける。
私を切り捨てるとか、いらないとか、もうめんどくさいとか、そう言う話じゃないの…?てっきり、選択権は、隆綱殿にあると思っていたのに、私が、大丈夫か否かを問われる、その不思議さ。
そもそも、隆綱殿は、何て言った?優しくする、自信がないって、何?さっきのは、優しくできてなかったって事…なの?あれは、私への配慮を抜きにした、隆綱殿の本当にしたい事?そんな風に考えて、そう激しく求められる事に、心も体もあり得ないくらい熱くなるのに、奥底から震えが沸き上がってくる。恐怖や怯えが一気に私を包む。ただ男の人の欲望が怖いのだ。
途端に、さっきまで言えてた、大丈夫が出てこなくなる。もちろん、そんな私の怯えに気付かない隆綱殿ではない。
「ね?年甲斐もなく、こんな感情ばかりで突っ走るおっさんは、何をしでかすか分かりません。ですが、おっさんですからね、二、三日もすれば、落ち着くと思います。勢いで、あのように言いましたけれど…きっとそれからでも遅くないって事なんでしょうね」
いつものように、温かい手のひらが、ぽんぽんと頭を撫でる。
すぐさま、それをちょっと乱暴に振り払う。
いつもなら、子供扱いされてると思っても、それに心地好さを感じるのに、無性に腹が立ったから。
もう私の過去なんて気遣って欲しくない。そりゃ、こんだけ怯えといて、自分勝手だと思う。その上、私は年下だから、上手くいかなくなったら、隆綱殿はすぐに年上の顔になって、弱い私を守ろうとしてくれる。どうしたって、対等になんてなれっこないのかもしれない。でも、だからこそ、こんな時くらい、隆綱殿の本当の考えや気持ちを見せて欲しかった。優しく包み込むだけじゃなくて、我が儘を見せて欲しいのに。
「そうですか。そうでしょうね、年端もいかない小娘なんか、感情が不安定で扱い辛いですもんね」
「そんな風に思ってたら、先刻のように、我を忘れるほど欲情なんてしませんよ」
隆綱殿の言った言葉に、目を見開いた。
「だってね、思うがままに君を抱けるほど、まだ私は君に許されてない。だと言うのに、許されないままに進めてしまえば、さっきのように君はまた闇に囚われてしまう。今までは、君の願うままに闇を見せていましたが…もう、それだけはしたくないんです」
闇。
濁した言い方だけれど、何が言いたいのか分かる。
どれだけ迷惑をかけてたんだろ。私は、私の務めを果たさなくちゃと、そればかり考えていたけど、心と体は全然別で、夫婦としてなんて口で言ってはいたけど、体は拒否反応を起こしていた。そうなる度に、初な娘ではないと知られる事に恥を感じたり、苦悶を浮かべはしたけれど、隆綱殿にとって、そんな事は重要ではなかったのだ。…嫌だと体を縮こまらせる相手を、そこまでの気もないのに最後まで強いられるのは、どんだけ面倒だっだろう。

親兼の、あの行動の真意を知ったとしても、植え付けられた恐怖は消えていない。そこに心があったのだとしても、私にとっては、ただの暴力でしかなかったから。あの記憶が、あの感情が、私の中から消えてなくなるだなんて、残念な事に、想像もつかなかった。
でも、隆綱殿の言う、思うままって言うのが、具体的には分からなかったけれど、そんな風に言ってくれて、心があり得ないくらいぎゅっと切なくなる。
「許すとか許さないとか、そんな事、いつになるか分からないじゃないですか…そうじゃなくて、私も、隆綱殿にだって、隆綱殿の思うままに、その、いて欲しいんです」
「私の思うまま、ですか?まぁ、その点は、若いもんと違ってね、おっさんには気長さがありますから。少しずつ、君の心を溶かせればいいんですよ」
「また、おっさんって言った!おっさん、おっさんって、何よ。親兼に言われた時は、不服そうだったじゃない。どうして、そんなに年上振るのよ。私、そんなに子供じゃない!」
命いっぱい、声を張り上げる。
目を瞬かせてから、隆綱殿は眉をしかめて、苦笑する。
「子供だなんて思ってないって、言ったでしょう?君は、十分、年頃の娘ですよ」
「だったら、その若い私に合わせてよ。おっさんなんて言わないで。気長になんて、私は無理よ。どんなに闇が深くったって、光があれば、あっという間に、闇は消えてなくなるわ。私に、光を見せて」
その言葉に、隆綱殿は何かを言おうとして、口をつぐんだ。左右に、ゆっくりと、瞳を動かす。これって、考える時の仕種なんだなとか思ってたら、素早い動きで腕が伸びてきて、ぎゅっと抱き締められる。
またしても、一体、どう言う展開なの?隆綱殿って、さっぱり分かんない。
でも、密着した体に、確固たる強張りを感じて、心があり得ないくらい高鳴り、体温はぐっと上昇する。
「君に、光が見えるくらい…おっさん、頑張ってもいいかな?」
長い沈黙の後、隆綱殿は、信じられないくらい、掠れた声で、そう言った。

私は、うんと返事すると、その場の勢いで、隆綱殿を押し倒した。
私を見上げ、優しく笑う隆綱殿に、口づけをする。待ってられないとばかりに、舌を差し入れると、宥めるようにそっと横髪を掬い上げられる。頑張るとか言った割りに、されるがままな隆綱殿は、至極機嫌良さそうに、ただ何度も何度も優しく私の髪を梳くだけ。だから、私は、存分に隆綱殿を味わった。
私の下唇をちゅっと食んで、二人を繋いでいた銀糸を断つと、隆綱殿は、はぁとため息を吐く。
「あーぁ、なんだか、論点がずれまくってしまったけれど…なんですかね、詰まる所、私は、君に良いように言いくるめられたかったんでしょうね」
「キビの鬼才が?私みたいな小娘に?」
「君の前では、ただの色惚けたおっさんですから」
「また、おっさんって言う」
隆綱殿本人より、私の方が不服そうに、下唇を突き出すけど、隆綱殿は苦笑するだけ。
「結構ね、ずしりと来たんですよ。私も、そう言う歳になったんだなと。いつまでも、若いもんではいられないもんなんですね」
思い返せば、隆綱殿が、親兼の事を、近頃の若いもん、と言っていたような。そう言う台詞が無意識に出てしまう時点で、自他ともにもう、若いもん、とは思えなくなっているのかも知れなかった。
「でも、おっさんだから、いいんだもの」
「そんな持ち上げて。おっさんの恋情は、重たいですよ?」
「こっちだって。小娘の恋心は、腫れ物同然ですよーだ」
ふっ…確かに、と隆綱殿は笑うから、何だか面白くなくて、手を振り下ろすけれど、さすが武道の心得があるので、簡単に、はしっと手首を掴まれてしまう。

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