戦国の花嫁■■■無声の慟哭 後日譚:若き昌綱の悩み■


あれから、十年。
東から押し寄せる余呉の圧迫に、キビの一国でしかない、我が主家、大谷は、もちろん耐えきれる事もなく、その軍門に下って、早久しい。でも、それは、大谷の家だけではなく、キビの国全ての武家の総意であったから、それも時代の流れだったのかもしれない。
そして、俺はと言えば、余呉に従ったその年の秋に元服をした。
「昌綱」
その名を呼ばれ、振り向く。
若竹、改め、昌綱。
最初は慣れなかったけど、今はそれなりに、気に入っている。
まさつな、強そうな名前だ。いや、俺は強い武士だから、強い男の名前に違いなかった。
今、その名を呼んだのは、父である白河隆綱。
父上はと言うと、文を手にしていたから、どこぞから、また軍の催促でも来たのだろう、と思った。厄介なものでなければ、良いのだけれど。でも、そうであったにせよ、白河の家にとって、武功を挙げる好機である事に変わりはない。

それに、父上の采配は、余呉殿の下、大きく花開いた。もともと、大谷の勢力の西、津本の山々を挟んで反対側に勢を置く外山氏からの度々のちょっかいを、父上は、その半数にも満たない兵力で、打ち負かしてみせていたのだから、当然と言えば、当然だったのだろう。魚に水、父上に兵。与えられれば、あの手この手で解決してみせる力量を父上は備えていて、瞬く間に、その噂は、余呉の勢力下だけでなく、全国に広がった。
今では、白河は、主家の大谷の家を凌ぐほどの勢いを見せている。まあ、昔気質な父上は、曾祖父の代から恩のある大谷の家の上を行く事を良しとはしなかったから、畏こくも憚りながらって感じだけど。これには、一門、郎党、そして、領民さえも、どうして、上を狙わないんだ!って、嘆願書が山のように積み上げられたりして、一大事になったのも、何だか懐かしい。
考えが反れたけど、父上は文を手に来ているから、つまり、戦がやって来たって事なんだろう。
でも、それにしては、表情が明るい気がするけど。まさか、とうとう、父上は、軍神並みの超越した心を手に入れてしまった?!
「父上、いかがされましたか?」
「お前に、良い報せが届いた」
そう言うと、父上は、俺には滅多に見せる事のない類いの笑みを惜し気もなく見せてくれた。

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進むべきか、退くべきか。
戦において、それを見誤れば、命はないし、それを見極めようと時をかけても、また、生き延びれはしないだろう。
でも、今は、自分家にいて、命の危機なんてどこにもないから、余計にぐだぐだと悩む。

そもそも、例え、今から、俺がしようとしてる事をしようがしなかろうが、この先何が変わるのか。何の益もないのではないのか?と問われてしまえば、俺は答えに窮するしかない。
ただの心の問題。それに尽きるから。
だとするのなら、あれこれと後先を考えるのは、ただの逃げ口上にしかならない。
やらないより、やって後悔する方が、俺の性分に合っているから、つまり、己のため、進むべき、って事なんだろう。
そして、あの人の為に…。

静かに呼吸を整えて、俺は歩き始めた。



「母上、昌綱です」
「あ、え…昌綱?どうぞ、入って」
俺の到来に、彼女は、驚きながらも、嬉しそうに微笑みを見せると、座を勧めてくれる。
お姫様、改め、母上。
元服を期に、俺は、彼女をそう呼ぶようになった。
そう言い出した当時、当の本人は、得心がいかないって感じで、頻りに首を傾げはしたけど、下の兄弟たちも言葉が分かるようになってきたから、兄の俺がお姫様なんて呼んでたら、混乱するでしょう?と告げたその言葉を鵜呑みにして、俺の意図なんて、今の今まで、全く気付く素振りもない。ちなみに、その当時、一番上の妹は、すでに六つで、母上の事を、お姫様と口にした事は一度としてなく、当然のように、母上と呼んでいた。
基本、彼女は、俺に甘いから、それは具合が悪いとか、それはちょっとなとか思わない限り、なんでもうんと頷いてくれるのだ。
けれど、俺はと言えば、成長するにつれ、言いようもない感情を彼女に抱くようになったから、母上と呼ぶ事は、けじめみたいなものだったのである。
何を隠そう、俺は、父上の後添えとしてやって来た義理の母に恋をしている。
だって、俺と彼女は、十も変わらない。そして、父上と彼女は、二回り近くも離れてる。そんな風に、年齢だけみると、なんで、彼女は父上の妻なんてしてるんだろうって考えてしまう。しかも、後妻。そりゃ、父上は、主家大谷からの姫君を貰い受けたって、何ら障りのない器なんだって、分かってるけどさ。どうして、俺はあと五つ…いや、七つほど先に生まれてなかったのか、そしたら、俺だって…とか、悶々としない日はない。
しかしながら、そんな人の道にもとる思いなんて許されるものではない事くらい、分かっている。この思いを声に乗せてしまおうなんて事だって、しようとは思わない。でも、今の俺には、彼女の笑顔が一番だった。諦めようって、手っ取り早く、男になって、他の女子ともそれなりに付き合ってみたが、彼女以上に、俺を喜ばせる女子は見つからないまま。
この前だって、遠乗りに出掛けた際に、手折った楓の枝を持って行った時だってそう。本当はもう、絶対に呼ばれない限り、会いには行かないって、誓いを立てていたのだ。だと言うのに、錦に染まる景色を見て、ふと、山手で生まれたと言う彼女の話を思い出して、今は亡き生家を懐かしんでくれるだろうかと思った時には、もう枝を手にしてた。また今度もダメだったって思ったけど、そんな事は、もう数えきれないくらいだったから、溜め息一つで済ませ、かえって、彼女に会いに行ける口実ができたと心を弾ませる始末。自分の事ながら、お前、アホかって自覚はある。
俺にとって、彼女は、いつまでも変わることなく、お日様そのものだ。彼女なくしては、世は皆暗く、何も見えやしない。彼女がいたからこそ、生みの母との死別の悲しみを乗り越え、俺は笑う事ができるようになった。
「あなたが、ここに来るなんて、珍しいわね」
「そうですか?」
「そうよ。前に来たのは、いつかしら?楓を持って来て以来?それって、どれくらい前だった?思い出せないわ」
小首を傾げて見せる彼女に、俺は曖昧に笑った。

前に会ったのは、十八日前。
日にちだって、俺はきちんと覚えている。忘れてなんて、いやしない。
まあ、元服以来、必要最低限(我慢できる限りとも言う)しか、顔を見せていないからね。でも、少しは、気にしてくれてたんだ。そう思うと、俺の単純な心は、たちまち踊り出すから、全くもって困る。…期待しても、損なのに。
「それより。耳に入っているとは思いますが、報告に参りました」
「ええ、殿から聞いたわ。沢村殿のご息女だとか。良かったわね」
まるで自分の事のように嬉し気だから、少し悲しくなる。俺、他の女の物になるんだけど…微塵も、何の悲しみも、寂しさすらないんだね。
まあ、分かっていた事だ。重々、承知の上さ。
嫁いでこの方、彼女は、我が父上にぞっこんなのだから。俺の淡い秋波なんて、秋風同様、袂を擦り寄せて、跳ね返してしまってるんだろうよ。
嗚呼、切ないな、片想い。
「あれ、嬉しくないの?」
ささくれ立った俺の気持ちをようやく理解したのか、彼女は俺に尋ねる。
「いえ、白河の家にも、良い縁組みだと思います」
「そうね。沢村殿は、羽生殿と深い関わりのあるお方だと聞いています。殿も、羽生殿には目をかけていただいているようだから…きっと上手く行くわ」
「そうですね」
「それに、昌綱はご息女と面識があると聞いたけれど…何、気に入らないところでもあったの?」
「いえ、特には」
そうか。言われてみれば、顔を会わせた事があったな。
そんな事よか、独り身の気ままさで、秘めた恋心を抱いてはきたが、妻を迎えるのだから、今後はもういい加減断ち切らなくてはいけない、悟られでもしたら大事になる。でも、断ち切るとか、そんな事可能なんだろうかと、そればかりに囚われていたから、縁談の相手だと言われても、そんな過去の事、思い出しもしなかった。
あれは、いつだったか,,,京にて、何かの折りに、沢村殿の屋敷に招かれる事になった父上の共をした際に、宴を切り盛りする娘を自慢気に紹介されたのだった。
沢村殿は、余呉の陣営の中でも、剛力を誇る武士らしく、正しく仁王様然としていたから、その娘と聞いて、一体どんな強面が出てくるかと思ったが、予想に反して、可愛い顔をしていたのを思い出す。紹介をされ、一番に思ったのは、母親に似たの、良かったね、だったから、さして彼女に対し、なんと思う事もなかったし、記憶はあまり鮮明ではない。きっと向こうもそうだろう。それが、夫婦になるなんて…お互い、驚くしかないだろう。
「そう?もしかして…」
そこで、彼女は、思わせ振りに、言葉を切った。
もしかして、何?
もしかして、そんな気が進まない顔するのは、まだ私の事が好きだからなの?
…とか?
ごくりと唾を飲み下した。
「他に、思う女子がいる、とか?」
当たり!当たりだよ!漸く気付いたね!
秘密を暴かれる危機感と積年の思いが伝わりそうな予感に、鼓動が一気に高鳴る。
…アホだ。ここに、アホがいる。あーぁ、全く、単純すぎる自分が、悲しい。
おぃ、昌綱。状況をよーく把握しろ。ただの早とちりだ。よく見ろ、異腹の息子に恋慕されてると感付いた表情か?なぁ、違うだろ?そもそも、よく見る必要もないし、その裏に隠された感情を推量する必要もないだろ。
その表情は、まさか、その恋慕する相手が自分である、だなんて欠片も思ってないものなのだから。
そう結論を下したのに、尚も自分の思考下に納まろうとしない、飛び出さんばかりの心臓を押さえつけて、溜め息を吐くしかない。
そんな俺を見て、彼女も困り顔になる。
「そうなの?困ったわね…殿にお願いして、お断りする?」
「いいえ、大丈夫です。初めにも言いましたが、この縁組みは、白河にも良いものなのですから」
「そんな。殿だって、無理にとは言わないはずよ。私からも、お願いするから」
「平気です。僕は、白河の嫡男。どんな覚悟もしています」
「だけど…」
「母上だって、父上を思って、ここに嫁いだわけではないでしょう?だから、僕だって、沢村殿のご息女を大切に思う日が来ますよ」
「…なら、いいのだけど」
にこりと笑って見せると、彼女は、少し不安気に、笑みを返した。

だって、どの道、一番は手に入らないのだから、誰だって、同じに思えた。それは、嫌うとか厭うとか、ましてや、諦めとか、そう言う事ではなくて、それなりに愛着を持って、情を掛け、大切にする、そう言う、覚悟に似た気持ち。何しろ、武家に生まれたのだ。好きな女子と添い遂げられるだなんて思ってなどいない。
それに、この縁談は、俺個人への期待ではなく、父上の武勲による七光りでしかないのは分かっているけれど、端武者の俺にしたら、千載一遇の機会。感情なんて言う、飯の食えない問題で逃すほどアホではない。
だから、やって来るだろう花嫁を、俺は、大切に出来る。それが、武士だ。

「でも、祝言だなんて、昌綱も、大きくなったのね」
感慨深そうに、彼女が呟く。その瞳は、どこか悲し気で、再び、俺の心を熱くさせる。
なに、惜しんでくれるの?とか、アホなトキメキは、すぐさま、思考の脇に放り投げる。
だって、この瞳は、本当は、俺に向けられるものではないのだ。何度も見てきた、この類いの瞳の意味を、俺は知っていた。そして、ずっと見守ってきたのだ。

それは、父上と約束した時から始まった事。

あれは、彼女が白河にやって来て数ヵ月後、父上に謀反の疑いがかけられたすぐ後の事だった。
まだ稚児だった俺には、何がどうなったのか、事の顛末までは分からなかったけど、白河の家の一大事であった事は、肌で感じ取れた。幼いなりに、気を遣って、大人しくしたりした。帰ってきた父上と彼女を出迎えて、ほっとした記憶は鮮やかだ。そう、なんでか知らないけれど、彼女も大谷に出向いていたらしかった。気になって聞いてはみたものの、困ったように笑って誤魔化されてしまったから、謎のままだけど。

それから数日して、父上が、俺を呼び出した。

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「若竹にとって、あの方はどんな存在だ?」
あの方。
父上が、そんな風に人を呼んだ事ってあったかな?でも、あの方って、つまり、お姫様の事なんだろうな。他に思い付かないもの。
どんな存在って、なんだろう?
うーん…。
お姫様は、お姫様で…。
大谷のお姫様?
父上のお嫁さん?
母上のような優しい方?
僕の涙を拭ってくれる人?
どれもそうだけど、なんか違うなぁ。
「お姫様は、僕にとって、大切な人です。いつも僕の事気にかけてくれるから、僕もお姫様を大事にしてあげたいな」
どんな、とか分からなかったけど、大切だ。
父上は、僕の言葉に、しばらく考え込むようにしてから、じっと、僕を見た。
「若竹、一つ約束してくれるか?」
「はい」
何も考えずに、返事をする。

今にして思えば…お前、武士として、内容も聞かず、二つ返事ってどうなのさ、とか、父上呆れてたんじゃないか?とか、後悔の思いが強いけれど、あの時はただ、普段は遠くて手の届かない父上に頼りにされている、そんな気がして、舞い上がってしまったのだった。

父上は、そうか、と言って、僕の頭を撫でた。
「若竹には、あの方にとって、弟であって欲しいんだ」
「弟?」
思っても見ない言葉に、目を瞬かせた。
お母さまじゃなくて、お姉さまって事?
「あの方には、龍丸と言う弟君がいた。その弟君をとても可愛がっていたんだ」
「じゃあ、今は、大谷と白河とで、離れ離れになってしまって、お姫様は寂しいから、僕にその代わりをしなさいって事?」
「いや。弟君は、大人の都合で、亡くなられたから、大谷にはおられない」
「もう、いないの?」
「ああ、ちょうど、若竹くらいの年頃だった」
僕と同じくらい。それって、随分幼いな。そう言えば、お姫様の生まれの父上は、もういないんだっけ?だから、お姫様は、大谷にいて…。つまり、弟君は、戦で亡くなったんだろうか?でも、僕と同じくらいなのに、戦に出たの?それが、大人の都合…?
「きっと、急にいなくなった弟君の面影を、あの方は、探したんだろうと思う」
「それが、僕なの?」
「弟君は、あの方と年子だったから、お前よりもずっと年上の者を見つけたんだ」
「じゃあ、僕はその人の代わり…?」
そう言うと、父上は、苦しそうに眉をしかめた。
「ただそれだけなら、良かったんだが…その弟君の代わりとも言える男に、あの方は、手酷い裏切りに遭ってしまわれた。今も、その傷は癒えていないだろう。だから、若竹、お前には、あの方の安らぎであって欲しいんだ」
「安らぎ?」
「まあ、深い事は考えなくていい。ただ、あの方の笑顔を守って欲しいんだ」
「僕が、弟でいたら、お姫様は、笑っていられるって事?」
「父の自己満足でしか、ないかもしれないけどな」
「分かった。僕、お姫様の弟でいる」
「そうか。そして、出来る事なら、いつか、あの方を悲しみから解き放ってくれ。頼んだぞ」

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そんな風にして、幼かった俺は、父上と約束をした。
彼女にとって、俺は弟でいる。亡くなった弟君の代わりとして。

散々、彼女に恋をしてる、彼女が一番、とかなんとか言ったけど、俺にとっての至上命題は、それだった。
父上との約束。そして、彼女の笑顔を守る唯一の方法。
でも、それは、父上の言った通り、周りの自己満足でしかないって、大きくなるにつれて、痛いくらいに気付かされた。
そんな事をしていても、彼女の悲しみは消えはしないんだ。

だから、今だと思った。
彼女を悲しみから解き放つ、その時が来たんだ。
さっと近付いて、彼女を抱き締める。鼻孔に広がったのは、優しく、甘い、香り。
久しぶりの彼女の香りに、胸がぎゅっと切なくなる。
「昌綱?」
もちろん、彼女は驚き、身じろぐ。それを押さえつけるように、ぎゅっと力を込めた。
どんだけ緊張するんだろうって思ってたけど、心は、予想外に落ち着いていた。まるで、戦場にいるような、高揚感と冷めた思考。どんな事でもできる、そんな気に後押しされる。
「呼んで」
「え?」
「龍丸って、呼んで」
龍丸。
幼い頃に聞いた、彼女の弟君の名。
彼女は、はっと息を飲む。そして、それを悟られないように、平静を装うとする。
「急に何を…」
「大丈夫、ここには、僕と母上だけしかいないから」
小さい頃、何度も俺の心を和らげた彼女の言葉を、今度は俺が言う。
そして、腕の力をさらに強めて、姉様、と囁く。
彼は、そんな風に、彼女を呼んだのだろうか。そんな事、知りもしないけど、幾ばくかは、彼女の枷を外す何かにはなるんじゃないかって思った。
予想通り、沈黙が続く。
まあ、急にそんな事言われてもって感じだよね。祝言の話をしてたのに、どうしてこうなるのかって、混乱するだろうさ。
俺なら、ドン引きだ。
けれど、そのまま待っていると、そっと俺の背に彼女の腕が回される。ぐっと抱き寄せられる感覚に、ありし日の思い出が甦って、あり得ないくらい興奮したけど、今は、俺の出番ではない。
じっと、次の言葉を待った。
「大きくなったわね…龍丸」
涙混じりのその声は、か細く、掠れていたけれど、しっかりと俺の耳に届いた。
それから、すすり泣く彼女を、俺は無言で抱き締めた。
ぅっわーい、役得だ!なんて、思ったのは、若気の至りである。




「知ってたんだね」
どれくらいの時が経っただろう。涙を拭って、笑みを見せながら、彼女は言う。いつも通りの、彼女の笑み。
「うん」
「ありがとう。ずっと、ずっと、弟でいてくれたのね」
「まあ、上手にやれていたかは、また、別の話だけどね」
「そんな事ない。十分だよ。…でも、なんだか、恥ずかしいよ。私、自分では見守っていたつもりだったのに、反対に、守られていたなんて」
「そんな事ない。僕だって、同じだった。僕たちは、お互いに支え合っていたんだと思う。お姫様にとって、僕が弟であったように、僕にとって、お姫様は母上のいなくなった穴を埋める存在だった」
まあ、後半は、母上の代わりだなんて、少したりとも思ってやしなかったけど、あの頃の俺にとって、彼女は、唯一と言っていいほどの存在だった事に、相違はないから、朗々と告げる。
「そうね…きっと、そうだったね」
僕の言葉に、彼女は頷いた。
「でも、私は、もう大丈夫だよ。ありがとう、昌綱」
やはり、いつも通りの彼女の笑顔だった。
いつも通り過ぎて、不安になる。
本当に、彼女は、喪った弟の呪縛から解き放たれたのだろうか?俺のした事は、ただの気休めでしかなかったんではないだろうか?もっと良い方法があったんじゃないかと後悔が押し寄せる。
「僕は、あなたより、先には死なないから」
考えるより先に、口からついて出た言葉に、自分で、何言ってるんだって思った。
俺は、戦場を駆ける武士だ。明日の命など、露に等しい。第一、命を賭けるのは、戦場であって、女子に約束するものではなかったはずだ。
そんな分かりきった事を言質にしたって、誰一人として信じるはずなんてないのにね。
なんてバカな事を言ったんだろう。
撤回しようと口を開いたその時、彼女の大きな瞳から、大きな涙が流れ落ちた。それは、頬を伝い、弾けた。
「死なないで。約束よ」
にこりと笑う端から、大粒の涙が溢れ出す。
彼女の切なる願いは、俺の胸の奥底に刻み込まれた。俺の言った事なんて、なんの保証もないけれど、ただの口約束でしかないけれど、彼女の心を安んじたんだと実感する。

こうして、彼女を見つめ続けた俺の十年は終わった。



ちなみに、泣き腫らした彼女を見た父上が、彼女を問いただし、その真相を知って、俺をじりじりと炙るように、かつ、ねちねちと攻め立てたのは、言うまでもない事かもしれない。
俺は、ただ父上との約束を守っただけなのに!

■fin■■■

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