深窓の姫宮■■■03■


男の名前は、良人さまと言った。

いつと決まりはなく、私の許へ訪れる。
もう何回目になるだろうか?
夕闇の中の良人さまとの会話が、私にとって、楽しみの一つになり始めていた。



良人さまは、決まって月の出ない頃にやってくる。
その理由を尋ねた。
「月は、恋に欠かせないものでしょう?」
考えるように、少し間をおいて、良人さまは答えた。
確かに、恋歌と呼ばれるものには、月を詠み込んだものが多い。
「では、月のある夜は、恋をしてるのね」
「恋を?」
「違うの?」
「いえ…おそらくそうなんでしょうね」
良人さまは笑う。暗くて表情は分からないけど。そう言えば、初めて会った日以来、光のあるところで良人さまの姿を見た記憶がない。暗闇の記憶。声や息遣い、そして焚きしめた香の匂い。目ではなく、他の感覚で感じられるものが、良人さまとの記憶だ。
「ですが、深い意味はありませんよ。ただそうなってしまっただけで…今度は、満月の夜にでも参りましょうか?」
「いえ。恋に月が不可欠なら、これからも変わらずで構いません」
「月にとって、恋が不可欠というわけでもないですよ。月夜に語るのは、恋だけとも限りません」
「何を語るの?」
「それは自由ですよ。お好きなことを。今のようにたわいもない事を話すこともありますし、歌会を催したり…それこそ月を愛でたり」
その情景を思い浮かべてみる。
「楽しそうね」
「えぇ」
「でも、いいわ。良人さまとは、これでいい」
「どうしてです?」
「良人さまの月夜を邪魔しては悪いもの」
「邪魔なんて…どうしてそう思うんですか?」
「月のある夜は恋をしているのでしょう?」
私は、もう一度、同じ言葉を言う。
そう口にすることで、自分は恋をしてはいけない存在であると、自分に言い聞かせているのだと、何となく思う。そう思って、初めて、自分が恋をする事に憧れているのだと思った。
月の光が仄かに差し込む部屋の中で、自分以外の誰かの笑い声が響くのを想像してみる。
その声は、低くお腹に響いて、何故だか、胸が凍みた。

「分かりました。お言葉に甘えて、そうさせていただきます」
くすり、と笑って、良人さまが告げた言葉に、私は落ち着く。
私たちは、歌を贈ったり、恋をしたりしていないのだから、これからも、ずっとこんな風に、月のない夜にお話をする事ができると思えた。

だから、私は、この時良人さまがどんな表情をしているかなど分かるはずもなく、ましてどんな事を思っているのかなんて、声の感じや間の取り方で感じるしかなかった。出会ってから、良人さまは、笑みを絶やさず、変わることなく優しく穏やかに振る舞うから、心もそれと同じなのだと思っていた。

「そう言えば、良人さまは、昼間何をしているの?」
「普通に宮仕えをしていますよ」
「出仕を?どちらに?」
「春宮の方に」
「では、博士?」
「まさか…そのような身分ではありませんよ。春宮のお側にいてお話相手をする者の一人ですよ。今とさほど変わりません」
「そう…だから、お話が上手なのね」
「ありがたいお言葉。満足していただけているのなら、こうしてお目にかかる光栄を甘受できます」
「そんな風に考えていたの?」
「姫宮は貴きお方ですからね。そう思わずにはいられません」

では、私にとって、良人さまはどのような存在なのだろう?
乳母や傍仕えの者に黙ってまで、お話をしたい方?
私は何を望んでいるのだろうか?

外の人?
男?
話し相手?

どれも違うような気がする。
良人さまとの時間は、物語を読んでいるような、かといって、非現実的でもない、その境を行ったり来たりしている、そんな気分になる。

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