深窓の姫宮■■■14■


「本当に後悔されませんか?」
「良人さまは?」
「俺?俺は、姫宮ほど世間知らずでもありませんよ」
驚くようにして、三つほど瞬きをして、良人さまは笑った。
真剣に聞いたのに、答えもその笑い声も、心外で、はしたないけれど下唇を出して、むっとする。
「私は愚かだから、このまま何も知らなかった頃に戻れというの?」
「俺には、心を痛めてくれる人がいません。でも、あなたは、そうではないはずだ」
「じゃあ、この気持ちはどうなるの?良人さまのお側にいたいと言う気持ちを消してしまえとでも?」
「俺が言いたいのは、貴女の気持ちはそれだけではないはずだってことです」
「私の気持ち?」
「そうです。新院はどうお思いに?お母上の事も気がかりではありませんか?」
その言葉にズキリと胸が痛む。でも、この瞳を、この声を、この微笑みを忘れられるだろうか?
それ以上の痛みや悲しみなど存在しないように思えた。
「そんな良識など、とうの昔に捨ててしまっていたのです。良人さま以上に、私の心を揺さぶる人はおりません」
「姫宮」
「たとえ、後悔して、泣いて暮らす日が来たとしても、今を捨て去ることなど、どうしてできましょうか?良人さまには、できるの?」
「できるわけありません。姫宮を忘れることなど…手放すことなど、もう無理ですよ」
「でしたら、仰らないで。何もかも忘れさせて、良人さまだけを」

「…本当に純真な姫宮を拐かす男になってしまいましたね」
困ったような微笑みを浮かべた良人さまが近づいたと思ったら、視界が反転する。
良人さまの向こうに、天井が見えたけど、良人さまの瞳から目を離すことなどできそうになかった。見つめたまま、視界は良人さまで一杯になる。
どういうつもりなのか、何をしようとしているのか、尋ねようと思うのに声が出なかった。

睫毛の動きが分かるほど、良人さまのお顔が近づく。
少し伏せられた瞳は、近くで見てもやはり夜空の瞳をしていた。どこまでも深くて、吸い込まれそうな色。
この色を見たことがある、いつか、そう思ったのは、気のせいではなかったのだ。
小さい頃、こんな風に間近で、この色を見たことがあったから。 良人さまと同じ瞳の色をした人を私は知っている。 かつて、幼い私を抱き上げて、優しく微笑んでくれた父の新院の瞳と重なったのだ。
そう気付いて、今、自分のしていることが、少し恐ろしくなる。
後悔しないのか?と聞いてくれた、良人さまの思いやりに少し感謝するけど、この瞳を逸らそうなどとは思わなかった。
すると、良人さまは、くすり、と笑うから、どうかしたのか?と聞くと、もう一度、おかしそうに、笑う。
その声に、一瞬にして、恐ろしさは掻き消される。
本当にゆかしい、と思う。
きっともう手放せない。だから、それ以上の恐ろしいことなど、きっとないと思った。
「何が、可笑しいの?」
笑うことをやめようとしない良人さまに、少し拗ねたようにして、もう一度尋ねる。
「いえ、こんな時も、まっすぐに瞳を反らさないでいられる姫宮に、少しばかり、感心しただけです」
「こんな時?」
そう呟いた唇に、啄むような口づけが落とされる。
嬉しそうに微笑む良人さまの瞳を、私は、瞬きもせず、驚くようにして見つめた。
「こんな風に、口づけを交わすときは、瞳を閉じた方が良い」
ちゅっと音を立てて、もう一度落とされた口づけ。
さらに、もう一度。
今度は、良人さまが瞳を閉じるのにつられるようにして、自然と私も瞳を閉じた。
見えない分、音に敏感になった気がした。
触れた唇の間から、舐めとるように何かが触れたから、びくりと肩を揺らすと、良人さまが笑う気配がする。
「少し、口を開けて?」
その言葉に従うと、ぬるりと口の中に何かが入ってくる。そして、私の舌を舐めとり、絡ませたから、それは、良人さまの舌なのだろうと思った。
何をどうされているのか、わからなかったけれど、瞳を閉じているせいか、その舌の動きを鮮明に感じて、瞳を閉じた方が良いと言った意味が分かった気がした。

それから、荒い息をしているのが、自分だと気が付いて、驚く。
でも、やめたいなどとは思わない。
触れる良人さまの温もりが、暖かったし、手離したくなかった。それに、最後に、人の温もりに触れたのは、いつだろう?
こんなに心地よいものだったろうか?
肩に置いていた手を伸ばして、良人さまの首に巻き付けて、もっと良人さまの側に近付くと、良人さまも同じように私を抱き締め返して、口付けを深くした。

ちゅっと音を立てて、唇が離れる。
名残惜しくて、抱き寄せようと、手に力を入れたけど、私は、くたりと良人さまの胸に寄り添うしできなくなっていた。
ゆっくりと目を開けて、良人さまを見上げる。
面白そうに笑みを浮かべる様を想像していたけれど、全く逆で、無表情と言って言い様な、感情の読み取れない瞳で、ただまっすぐ私を見下ろしていたから、私は、何も言えずに、浅い息を繰り返した。
「そんなとろりとした瞳でも、まっすぐに俺を見ようとするなんて、感心するばかりですね」
「こう言う時は、瞳を閉じた方が良いの?」
言われるであろう事を予想して言ってみるけど、良人さまは、笑って、いいえと首を振る。

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