戦国の花嫁 −月の綺麗な晩の事−■■■01■


月の綺麗な晩の事。

平穏な一日の終わりに、何を思うでもなくそれを眺めていると、酒肴の乗った膳が差し出される。
振り仰げば、彼女がいて、今宵は特に綺麗ですね、と柔らかく微笑む。
何とも気の利いた妻を迎えたものだと思う。
杯を差し出す前に、徳利を寄せられ、なみなみと注がれる。それに月が宿るようにして、一気に呑み干した。
飲むか?と勧めると、苦笑して首を振り、もう一度杯を満たす。無理に勧めるつもりもなかったから、同じようにして、今度は半分程月を呑む。
「夫婦固めの杯の呑みっぷりは、大したものだと感心したんだが?」
「渡された杯を空するのは、家訓ですから」
その時の味を思い出したのか、さらに苦い顔をして、縁に腰を落ち着ける。
わしから人五人分は隔てた場所に、だ。祝言を挙げて数ヶ月、漸く迎えた蜜月だというのに、未だ借りてきた猫のような彼女に、憮然となる。
「なんで、そんな端に座るんだ?」
思ってもみない事だったのだろう、大きな瞳を更に大きくして、わしを見る。
「もう少し寄ればいいだろう?」
その言葉に、少し思案するように、ぐるりと瞳を回してから、人三人分近づく。その腰をぐっと引き寄せて、距離をなくすと、見上げた視線が恥ずかしげに臥せられた。
「美しい月と上手い酒、そなたの温もり…それに、わしへの思いを聞かせてくれたら、それに敵うものはないんだが?」
「それは...言わなくてはなりませんか?」
「言いたくないのか?」
「そのような…」
「なら、言えるだろ」
「お願い、言いたくないのです」
ふるふると首を振る姿は、何とも連れないが、わしを思ってくれると分かるようになった今では、とんでもなく可愛い。思わず、許してやりたくなるが、口にした途端、言葉がなくてはならないもののように感じる。
「わしを失うのがそんなに怖いか。それほどに思うておると、そう告げるだけのことだろう?」
黒い瞳がまっすぐと向けられる。
わしは、包み隠すのは苦手だから、彼女のこんな仕草が、どうにも歯がゆい。
困った顔などせずに、わしへの思いだけを感じて、微笑めば良いのに、などと告げれば、更に眉を寄せて、また益体もない事を言い始めた、などと思われるんだろう。
「なぜ、殿は、そのように強くいられるのですか?」
「強い?言葉にすることが、強さの証しか?」
「少なくとも、私には、できません」
「逆だな。わしは、弱いから、口にする。言葉で聞かぬと、実感が沸かぬ、そうではないか?」
「その実感が、恐ろしいのです」
「武士の娘とは、思えない発言だな。今生など、仮初めの宿だろう?」
「えぇ、仮初めです。ですが、泡沫なのに、なぜこんなにも、恐怖せねばならぬのですか?どうして、辛いの?」
「だから、なぜそう辛いことばかり考える?生きることが、そんなに辛いのか?わしといて、幸せじゃないのか?」
だとしたら、それほど辛いことはないだろう。わしは、こんなにも幸せだし、楽しくもあるのだから。
「殿は、私の心を乱してばかりで…私の心など、お分かりでしょう?どうして、私を放っておいてくれないの?」
「放っておくなど、それは、無理だな。わしは、そなたを愛しく思うし、笑いをかけてほしいからな」
愛の告白をしたというのに、なんと言う表情を向けるのか。
その内に宿したのは、絶望か悲愴か。とにかく、負の感情であるに違いないと言ったもので、彼女の思考を知っているとはいえ、苦笑いも出てこない。
「さすがのわしも、そんな顔をされると、詮ないな」
その言葉で、漸く、表情を消す。大きな黒い瞳が、まっすぐわしを見る。それが、ゆらりと不安にくゆる。
殿、と一言囁くように言って、ゆっくりと両腕を広げ、わしを抱き締める。
その体は、細く小さい。少女と言って差し支えない体だ。その体をわしも、抱き締め返す。
「殿の仰る通り、私は、少しばかり悲観的すぎるようです」
「自覚したか?」
こくり、と頷く姿に、笑みを深くした。
初めて口にされる囁きを想像してみる。
悪くない。
いや、最高だ。
「ですが、言えそうもありません」
「強情な」
全く正反対の言葉に、思わず声を荒げた。
そっちがその気なら、言わせてやろうではないか。
喜色を浮かべて頬を染める初々しさを期待していたが、俺を求め腰を揺らし喘ぎながら告げられるのも悪くはない。泣こうが、よがろうが、今夜は手加減などしてやらぬ。
そんな横暴な事を思いつつ、襟首に手を掛けたところで、殿、と小さな囁きが聞こえた。
わしだって、悪人ではない。正直に言うつもりがあるなら、聞いてやらないでもないと、何だ?と答える。
少々ぶっきらぼうになってしまったのは、仕方がない。
そんな返答を気にするでもなく、わしの首もと深く身を寄せて、さっきより更に小さい声が囁かれた。
「こんな強情な私ですが、寂しくないように、子を授けてくださいますか?」
一瞬、言っている意味がわからなかった。

その腕を離し、まじまじと彼女の表情を覗って漸く、自分の言った言葉を思い出す。
自分で言っても、何も感じなかったが…、言われる側だと、こうも感じ方が違うものなんだな。
頬に熱が集まるのを感じ、ぐっと彼女を抱き寄せた。
「わしの子が欲しいか?」
「はい」
恥ずかしそうに、だが、嬉しそうに微笑む姿は、先ほど想像したそれより、わしの心を揺さぶった。

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