戦国の花嫁■■■天下人の種30■


「ねえ」
そう言って、語り掛けると、栗色の瞳がこちらを向く。
「何て言うかさ…その」
上手く言葉が続かない。けれど、妻は僕を不思議そうに見守るだけだったから、勇気を振り絞る。今夜の正念場の一つ目。まだ、一つ目なんだから、こんなところで挫けて堪るものか。
「ねえ、本当に僕の事、好き…なの?」
告白の時に続いて、今回も、何とも、曖昧な感じになってしまったが、仕方がない。未知の分野過ぎるから、どうしたって、手間取る。加えて、例え、慣れたとしても、きっと得手にはならないと言う気がひしひしとする。
「ええ、お慕いしています」
心奪われんばかりの優しげな笑みがにこりと返ってくるけれど、今の僕の心を安心させてはくれなかった。
「でも、僕が言い出すまで、そんな素振り、全然見せなかったじゃない。少しもそんな感じがしなかったんだけど」
「それは、気付かれないよう内に秘めていたからです」
「え?」
「いつだったでしょうか?私が、夜更けに目を覚ました事があったでしょう?」
ぼんやりと思い出す、眠れない日々の一夜。
妻は、いつだって、刻を措かずに夢路に向かい、いつだって、僕が射場へ向かうより前には起きないと言う、すごく健康的な眠りの持ち主である。朝までぐっすりとか、どんだけ幸福者なんだよ!と何度恨めしく思った事か。しかし、ただ一夜だけ、大きな声を上げて目覚めた事があった。もちろん、僕はまんじりともしてなかったから、そんな妻にただ驚いて、寝た振り、知らない振りをしようかと思ったものの、何だか放っておけなくて、声をかけたのだった。そうした為に、その後、自分にどんな災厄がふりかかるのか、ちょっとでも知っていたら、絶対に気付かない振りをしただろうって事も思い出す。
「あの…うなされて、目を覚ました?」
「ええ、あの時、殿のいつにない瞳の色を見た私は、とっさに、ありったけの知識を総動員して、殿を誘惑したんです」
あれらの悲劇的な事は、濁しつつ言ったのに、妻は、言い澱む事もなく、はっきりと告げた。
誘惑。
その言葉に驚く。
いや、確かに、あの時、僕は言いようもない感情に苛まれた。ぐっと押し付けられた体は、温かく、そして、信じられないくらい柔らかくて、男にはない香りがむわって鼻いっぱいに広がって、心配なんて気持ちは一気に吹き飛んだ。そして、ぐるぐる空回りする思考から、なんとか絞り出した言葉は、成人した武士とは到底思えない幼稚なものだった気がする。と言うより、何を言ったのか、よく覚えていない。それくらいテンパってたけど、今にして思えば、それは、情欲だったのだと思い至る。まあ、その時の僕には、身体中を駆け巡る嫌悪感にしか思えなかったわけではあるけど。
ありったけの誘惑か…確かにそうかもしれない。今思い出すだけでも、どきりとする。
「でも、殿に誤魔化されて…気付けば、涙が溢れたのです」
そう言えば、あの後、床に着いて、涙を押し殺す妻を感じ、戸惑った。
「でも、それは、郷里を思い出したからじゃないの?」
「私の精一杯の強がりです。私は余呉の出です。余呉の家を誇りに思う事はあっても、懐かしさのあまり泣くなどと言う事は、後にも先にもありません」
「だったら、僕がお前の誘いをない事にしたからだって言うの?だけど、そんな事で怯むお前じゃないでしょ?」
何しろ、祝言挙げたてほやほやの初々しさの中、何の許可もなく僕を握った事に端を発し、妻の言動は、女慣れしてない僕を何度驚かせた事か。
だと言うのに、妻はと言えば、僕の言葉は不服だったようで、じとっとした瞳が返される。
「酷いお方。私にだって、人並みに傷付く心は持ち合わせているわ。それに、一大決心をして、あれだけの事をしたのに、あんな風に受け流されたら、誰だって、泣きたくなるはずよ」
「女子としての矜持を傷付けられたって事?」
「私も、初めはそう思ったわ。私が知る限り最高の振る舞いをしたのに、殿はすげなく振り払った。それが、悔しかったんだと…でも、違ったの」
そこまで言うと、妻は、僕をしっかりと見つめた。
ただまっすぐに視線を向ける栗色の瞳が、こんなにも表情豊かなものだなんて、誰が想像しただろう。少なくとも、僕には、冷たく、何の感情も宿さない、見た事もない種類の瞳だったのだ。
それが、今では、誰も見つめてくれなかった僕を、きちんと見定めてくれる瞳になったのだから、世の中、不思議なものである。
「あの時、胸に広がったのは、感じた事もないような切なさ。ぎゅっと締め付けられるような苦しさ。…止まらない涙の訳は、矜持を傷付けられたからじゃない、私の思いが、殿に届かなかったから。殿に拒絶されたから、心を傷付けられて、悲しくて泣くのだと気付かされたの」
「それが、あの涙の訳だって言うの?」
「ええ。その夜、初めて、殿が好きなのだと思った」
「でも、それって…随分前の事のように、思うけど?」
あの夜は、いつの事だったろうか?思い出そうにも、朧ろだった。
妻も考えるようにして、小首を傾げる。
「そうね。そう言われれば、私は、随分前から、殿を思っていた事になるわ」
「なんで言わなかったの?」
告げてくれてたら、あんなにややこしい事にならずに済んだかもしれないのに。
語気を強めた僕に、妻は目を瞬かせると、苦笑した。
「殿方の思いは、儚く、泡沫のようなものだから、自分の思い通りに行くなどと思うべきではない。そして、手に入れたと思っても、あっと言う間に、跡形もなく消え去るもの。…そのように、お母様に言われて、私は育ってきたから」

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