深窓の姫宮■■■13■

良人さまの言った名前を私は知らなかった。
人が聞けば、驚くような方なのだろうか?
「ご存じありませんか?」
「はい」
「俺の父上は、新院の異母兄にあたります」
「父の新院のお兄さまに、そのような方がいるとは存じ上げませんでした」
「そうでしょう。父上は、俺が成人してすぐに亡くなられた。もう10年ほどになります」
「そうでしたか。ですが、そのことがどうして理由となるのですか?降嫁でもないのに」
「父上は亡くなられたとき、本院の太子だったのです。そして、俺は皇太孫。そんな経歴の男が、今上の妹宮を慕うなんて、世の人はどう思うことでしょうね」
外を知らない私でも、それは想像できる。
一度変わった継承の流れは、逆戻りすることなど滅多になかったけれでも、なかったわけではないから。
「姫宮は、思慮深いお方だ。先にお話すべきだったかもしれませんね」
話をされたとして、この思いは変わっただろうか?
男は、私を穢す。そう言われて育った私にとって、どのような生まれの男でも会うこと叶わなかったのだ。
でも、たとえそうだったとして、前の皇太孫であった人は、最も敬遠すべき人の内に入るのではないのかと心のどこかで思う。
生まれてから培われてきた内親王としての自分が諭す。
この思いは、本当に抱いてはいけないものなのだと。
けれど、私はこうして良人さまとお話を続けることを選んだ。
「変わったでしょうか?」
「え?」
「先にお話されたとして、良人さまのお気持ちは、今とは変わっていたのでしょうか?」
「いいえ。変わらなかったと思いますよ」
私から視線を逸らすことなく良人さまが言った言葉に、私は安堵した。
同じ思いだったのだ。それだけで、胸が高鳴る。
「でしたら、変わらなかったのでしょう。良人さまは、ここを訪れ、私は、それを止めようとはしなかった」
「姫宮が事実を知っていれば、変わったとは?」
「そもそも殿方とお話することさえ禁じられた身なのです。それに…ただお会いしてお話するだけで、このような気持ちになるなど…その時の私にどうして分かったでしょう」
「貴女は本当に…」
そう呟いて良人さまは口籠もった。その表情には、険しさのようなものが混じっている気がして、少し戸惑う。
呆れられてしまったかしら?短慮だと、愚かな女子だと。たとえそれが万人の意見だとしても、良人さまにそう思われることはひどく悲しかった。
「貴女は、生まれ持っての内親王なのですね。そんな貴女を拐かすなどと唆すなんて、愚かにも程がある」
続けられたのは、私への非難ではなく、良人さま自身へのもので、戸惑う。
でも、どうして良人さまが愚かなのかしら?ぴんと来ない。
「内親王に近づくのは、決して誉められた行為ではありません。でも、私はこれで良かったと思っています。それは、きっと私自身が抱えていた問題のせいですから、良人さまが気に病まれる事はないのです」
「問題?」
「それは、口にすることはあり得ません。私の胸の内だけの事。どのようにせよ、私はこんな風になることを望んでいたのだと」
「まさか」
「本当です。良人さまは、その手助けをして下さっただけ。迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「迷惑だなんて…全ては俺の」
「いいえ」
そう言い合った視線が重なり、言葉は止まる。
非などいくらでも作り上げられるものではないか?
どちらも謝るばかりで、折れることはないのは、私自身感じている。
なのに、言い合いを続けるのは、滑稽に思えた。まるで、哀れみの視線を浴び、慰められたいと願っているようではないか。
そんな風に、良人さまも考えたのかは、分からないけれど、二人で視線を合わせたまま、微笑んで、声を上げて笑った。
そうして笑顔のまま、良人さまは告げる。
「触れても?」
そう聞かなくてはならないほど、人との接触がないと思われているらしい。
事実そうなのだけど。
触れる?何のために?
分からないけれど、好奇心より良人さまの瞳に見入られて、頷いた。
「では、失礼を」
そう言って、良人さまは笑みを湛えて、両の手を伸ばす。
その先にあったのは、私の右手。玻璃の器でも持つかのように、優しく丁寧に触れ、その手にあった檜扇をそっと取り上げると床に置き、頤から私の頬をそっと包み込んだ。親指で柔らかく頬を撫でる。
その仕草に頬が蒸気したのはもちろんの事、それよりも私の心を波立たせたのは、良人さまの表情だ。
先ほどまでの笑みは消え、食い入るように私を見つめる。その瞳は、見たこともない色を内に秘め、私の心の内までも見通してしまうのではないかと思えるほど、強く、そして、輝いていたから、訳の分からない脈動に驚くようにして、視線をずらしたのだけれど、頭は自由にはならないので、視線を感じることには変わりはなく、胸が高鳴るばかりだ。

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